2011.
11.
23
→東日本大震災 故郷への愛-①
はこちらからお入りくださいね
故郷への愛・・・10
大阪へ戻ったのが確か4月10日前後、
だったと思います。
しばらくぼーっ、、、としてしまいましたが、
まだほとんど仕事が動いておらず、頭の中は
あの避難所でひっそりと、ほとんど1日中動けずに
じっと寝ていたおじいちゃんたちの姿ばかりが
浮かんでは消え、していました。
避難所にFAXはあったので運営している看護師さんと、
ときおりやり取りしてみたものの、
細かなことまではわかりません。
地元ボランテイアの方たちの携帯にも何度かかけてみましたが、
むちゃくちゃ混乱しているだろう現地には、
けっこう携帯しにくいもので、
「携帯のメールができたらなあ、、、。」
とこの時初めて実感して若い人にメールのやり方を
教えてもらいました。
( なんとこの時携帯メール、まだできてなかったんです、、、。)
その情報で、これから以降必要なもので、
特に支援物資が不足するだろう、と予想されたのが
「春物の衣料品」でした。
なので、これらを集めるだけ集める努力をしてみよう、
と考えてとりかかったのですが、、、。
どうしても私の動きも考え方も「アナログ」になってしまいます。(笑)
中年をはるかに過ぎてから初めてパソコンのマウスを
恐る恐る触るようになった人はみんな多分一緒、だと思いますが、、、。(笑)
チラシをたくさん作って事務所前に貼り出す、
ご近所の方、しんせき中にくばり歩く、といったように、、、。
しかし、私には力強い参謀が存在しました。
前回(その89)でお話した、
叔母がボランテイアの経験が豊富で、
「やっちゃん、私ね、
力も取り得も何にもない女なんだけど、
人脈だけはすごい持ってるの、、、。」
うーん、、、。 心強いお言葉、、、。さすがだな、、、。(笑)
そこそこのお年なのだろう、と思いますが、
( 誰も知らない。)
あまりにも若々しくてキレイな人なので、
身内はみんな「おばさん」とは呼ばず、
下の名前でSさんと呼んでいます。
このSさんに、
このような場合の効果的なチラシの書き方、
訴え方など、全て教えてもらいました。
何度も文章や内容にチェックも入れてもらいました。
地元の市のボランテイア団体に口を聞いてもらって、
集まりに参加、お時間を頂いてプレゼンテーションも
させてもらいました。
本当にありがたいことにこれらアナログな動きでも、
地元ご近所のたくさんの方から、
大人と子供用春物衣料、作業服( ほとんどまっさらの物 )
医薬品、ハンドクリーム、化粧水、乳液、リップクリーム、
男性用シェービングクリーム、ヒゲソリ、靴下、肌着、
シャンプー、コンディショナー、
などの物資を集めることができました。
買占めにならないよう、お店を1件ずつまわって
買って下さったりと、手間暇かけてご支援くださったのです。
市のボランテイア団体の集まりに参加したときに、
1部の方はこののち、宮城方面に行かれる、ということで、
このとき主婦の方たちが、
「ウチらおばちゃんが行っても役に立つやろか、、、?」
と言うので、
「あのネ、10代、20代前半の若いおじょうちゃんに
すごい大量の炊き出しをちゃっちゃと用意できると思う?
今現地で炊き出しに一番活躍してんのは、
地元のベテランの主婦のおばちゃんたちだよ。」
「そうか。ホンマにそれもそうやな~。
ほな、ウチらも行って、頑張ってくるワ!」
ということで(笑)、、、。
( 若い方、ごめんなさい。)
支援頂いた物資を4月23日、でしたか、
夫が軽のハコバンにてんこもり積みこんで、
今度は1人で再び南相馬へ向け出発しました。
さらにこの後、私はひとりで
5月そして6月は1か月にわたり、
現地で動き回ることになります、、、。
この後の活動の様子は下の記事に詳しく書かせて頂きました。
どうぞこちらもごらん下さいね。
その168福島市は実は戒厳令下にあるらしい
その100被災地南相馬京セラ稲盛和夫さんびっくり仰天の出会い1~2
はこちらからお入りくださいね
故郷への愛・・・10
大阪へ戻ったのが確か4月10日前後、
だったと思います。
しばらくぼーっ、、、としてしまいましたが、
まだほとんど仕事が動いておらず、頭の中は
あの避難所でひっそりと、ほとんど1日中動けずに
じっと寝ていたおじいちゃんたちの姿ばかりが
浮かんでは消え、していました。
避難所にFAXはあったので運営している看護師さんと、
ときおりやり取りしてみたものの、
細かなことまではわかりません。
地元ボランテイアの方たちの携帯にも何度かかけてみましたが、
むちゃくちゃ混乱しているだろう現地には、
けっこう携帯しにくいもので、
「携帯のメールができたらなあ、、、。」
とこの時初めて実感して若い人にメールのやり方を
教えてもらいました。
( なんとこの時携帯メール、まだできてなかったんです、、、。)
その情報で、これから以降必要なもので、
特に支援物資が不足するだろう、と予想されたのが
「春物の衣料品」でした。
なので、これらを集めるだけ集める努力をしてみよう、
と考えてとりかかったのですが、、、。
どうしても私の動きも考え方も「アナログ」になってしまいます。(笑)
中年をはるかに過ぎてから初めてパソコンのマウスを
恐る恐る触るようになった人はみんな多分一緒、だと思いますが、、、。(笑)
チラシをたくさん作って事務所前に貼り出す、
ご近所の方、しんせき中にくばり歩く、といったように、、、。
しかし、私には力強い参謀が存在しました。
前回(その89)でお話した、
叔母がボランテイアの経験が豊富で、
「やっちゃん、私ね、
力も取り得も何にもない女なんだけど、
人脈だけはすごい持ってるの、、、。」
うーん、、、。 心強いお言葉、、、。さすがだな、、、。(笑)
そこそこのお年なのだろう、と思いますが、
( 誰も知らない。)
あまりにも若々しくてキレイな人なので、
身内はみんな「おばさん」とは呼ばず、
下の名前でSさんと呼んでいます。
このSさんに、
このような場合の効果的なチラシの書き方、
訴え方など、全て教えてもらいました。
何度も文章や内容にチェックも入れてもらいました。
地元の市のボランテイア団体に口を聞いてもらって、
集まりに参加、お時間を頂いてプレゼンテーションも
させてもらいました。
本当にありがたいことにこれらアナログな動きでも、
地元ご近所のたくさんの方から、
大人と子供用春物衣料、作業服( ほとんどまっさらの物 )
医薬品、ハンドクリーム、化粧水、乳液、リップクリーム、
男性用シェービングクリーム、ヒゲソリ、靴下、肌着、
シャンプー、コンディショナー、
などの物資を集めることができました。
買占めにならないよう、お店を1件ずつまわって
買って下さったりと、手間暇かけてご支援くださったのです。
市のボランテイア団体の集まりに参加したときに、
1部の方はこののち、宮城方面に行かれる、ということで、
このとき主婦の方たちが、
「ウチらおばちゃんが行っても役に立つやろか、、、?」
と言うので、
「あのネ、10代、20代前半の若いおじょうちゃんに
すごい大量の炊き出しをちゃっちゃと用意できると思う?
今現地で炊き出しに一番活躍してんのは、
地元のベテランの主婦のおばちゃんたちだよ。」
「そうか。ホンマにそれもそうやな~。
ほな、ウチらも行って、頑張ってくるワ!」
ということで(笑)、、、。
( 若い方、ごめんなさい。)
支援頂いた物資を4月23日、でしたか、
夫が軽のハコバンにてんこもり積みこんで、
今度は1人で再び南相馬へ向け出発しました。
さらにこの後、私はひとりで
5月そして6月は1か月にわたり、
現地で動き回ることになります、、、。
この後の活動の様子は下の記事に詳しく書かせて頂きました。
どうぞこちらもごらん下さいね。
その168福島市は実は戒厳令下にあるらしい
その100被災地南相馬京セラ稲盛和夫さんびっくり仰天の出会い1~2
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2011.
11.
21
故郷への愛・・・9
(故郷への愛・・・1,2,3,4,5,6,7,8 )と続けて、
4月初頭の被災地南相馬での実際見たことを
ブログにアップさせて頂きました。
このデコボコブログへお越し下さった皆様、
本当にありがとうございます。
この場をお借りして感謝の気持ちを申しあげさせて下さい、、、。
(ブログ機能の使い方、まだまだ勉強不足、
良くわかっていない、、、。
最近、やっとカテゴリ編集と写真アップがスムーズに
できるようになってきました。すみません、、、。)
私たちは7月以降、あれから1度も現地には行けていません。
ここ大阪でも「過ぎた過去」になりつつあるなあ、、、。
と感じながらもそれもまた無理もないことと、、、。
誰もが自分が生きていくことで精一杯。
ウチも足元に火のついた商売を何とかまわすことで
必死の今日現在、、、。
私の叔母が、かなりボランティア歴のある人で、
所属している団体で過去に様々な国と地域の活動をしている人なのですが、
5月初旬に、
「ピークはゴールデンウイーク。 それ以降は激減していく。」
と言っていましたが、、、。
現在は多い頃の2割ほどになっている、と聞きました。
しかし今現在なお、現地で1つ1つ、仮設住宅をまわって
支援している人がたくさんいて、阪神淡路の時とも同じく、
これからがますます長い長い過酷な道のりが続いてゆく、、。
なのですが、私は、、、。
「忘れ去られてしまう。」
ことが一番つらいなあ、、、と、、、。
つい勝手に考えてしまうので、
なので、今は何もできない私、現地で実際に見たこと、感じたことを
今しばらく書かせて下さいね、、、。
前回書き忘れてしまったのですが、この1週間の間に
ゆうこりんからたくさんの物資を石神に届けて頂いたのです。
冬物の、暖かそうな衣類をトラックに満載。
とても多くて、他の避難所の方へもまわって頂きましたが、
これらはとても重宝させて頂きました。
ペーパー類、オムツ類などはかなりゆきわたっていたのですが、
皆さんの着替えの衣類が全然なかったのです。
おまけにゆうこりん直筆の暖かいメッセージが添えられていて、
みんなで感激して読んでいらっしゃいました。
「これ、ほしい人。」
というと、そこに居た避難者の方ほぼ全員が
「ハイッ!!」
となったので、勝手ながら、
じゃんけんで決めさせて頂きました。(笑)
ゆうこりん、本当にありがとうございました。
えらい遅くなってしまいましたが(笑)、改めてお礼を申し上げます。
やはり「お国柄の違い」はとても感じられました。
東北の人はがまん強い、とマスコミでも良く言われますし、
私の知人の人もやはりそう。
こちらの人は、すごい遠慮しい、なんやなあと。
(ガマンにも限界がありますよね。)
「これ、大阪のおばちゃんやったら、もう、
ワーワー文句言ってるやろなあ、、、。」
という場面がいくつもありました。
というか、大阪のおばちゃんパワーは恐らく宇宙一、
かと思われるぐらいすごいので、あまり比較対象にはなりませんが、、、。(笑)
( とにかくすごい、です。
それ以外何と表現したら良いのかわかりません。(笑) )
1人、とても頭のいい友人がいて、
昔からジャーナリストを目指して勉強していて、
新聞社に入社。(現在はすでに退職。)
彼女がポツリと
「ボランテイアって一体なんなんだろう、、、。
一種の自己満足じゃない? どうしても一抹の疑問を持ってしまう、、、。」
と言ってたことがあって、、、。 うん、わかるよ、その気持ち。
誰だって持ってるかも、、、そういう疑問、多分。
でもいいじゃん、それでも。
行きたい人は止めても行くし、
行きたくても行けない人もたくさんいらっしゃる。
私も仕事が吹っ飛んでなかったら、行けない、行きたくても。
それぞれの事情を抱えて、日々の生活がある。
それが一番大事。
自己満足? うん、かもしれない。
後に5月6月に行ったときはさんざん行政から迷惑がられたし。
「わざわざ大阪から来て、よけいなことするな。」
的冷やか目線、バシバシ受けたし。(笑)
(参照)その168福島県は戒厳令下にあるらしい
でもいいじゃん、誰かに自己満足、と言われても。
だって、とにかく災害が起こったときは、大規模な長期間の
「人海戦術」
が絶対に必要なんだもん。
いちいち疑問感じてるより、動ける人は動く。
これ、全部日給で人を集めたらすごいことになってしまうよ?
大阪、必ず起こるよ、大地震。
とっくに期限が来てる。 人ごとじゃない。
全国の自己満足したい人、
行ける人はまだまだどんどん行ってネ。
と、あえて言っちゃう。 つづく
(故郷への愛・・・1,2,3,4,5,6,7,8 )と続けて、
4月初頭の被災地南相馬での実際見たことを
ブログにアップさせて頂きました。
このデコボコブログへお越し下さった皆様、
本当にありがとうございます。
この場をお借りして感謝の気持ちを申しあげさせて下さい、、、。
(ブログ機能の使い方、まだまだ勉強不足、
良くわかっていない、、、。
最近、やっとカテゴリ編集と写真アップがスムーズに
できるようになってきました。すみません、、、。)
私たちは7月以降、あれから1度も現地には行けていません。
ここ大阪でも「過ぎた過去」になりつつあるなあ、、、。
と感じながらもそれもまた無理もないことと、、、。
誰もが自分が生きていくことで精一杯。
ウチも足元に火のついた商売を何とかまわすことで
必死の今日現在、、、。
私の叔母が、かなりボランティア歴のある人で、
所属している団体で過去に様々な国と地域の活動をしている人なのですが、
5月初旬に、
「ピークはゴールデンウイーク。 それ以降は激減していく。」
と言っていましたが、、、。
現在は多い頃の2割ほどになっている、と聞きました。
しかし今現在なお、現地で1つ1つ、仮設住宅をまわって
支援している人がたくさんいて、阪神淡路の時とも同じく、
これからがますます長い長い過酷な道のりが続いてゆく、、。
なのですが、私は、、、。
「忘れ去られてしまう。」
ことが一番つらいなあ、、、と、、、。
つい勝手に考えてしまうので、
なので、今は何もできない私、現地で実際に見たこと、感じたことを
今しばらく書かせて下さいね、、、。
前回書き忘れてしまったのですが、この1週間の間に
ゆうこりんからたくさんの物資を石神に届けて頂いたのです。
冬物の、暖かそうな衣類をトラックに満載。
とても多くて、他の避難所の方へもまわって頂きましたが、
これらはとても重宝させて頂きました。
ペーパー類、オムツ類などはかなりゆきわたっていたのですが、
皆さんの着替えの衣類が全然なかったのです。
おまけにゆうこりん直筆の暖かいメッセージが添えられていて、
みんなで感激して読んでいらっしゃいました。
「これ、ほしい人。」
というと、そこに居た避難者の方ほぼ全員が
「ハイッ!!」
となったので、勝手ながら、
じゃんけんで決めさせて頂きました。(笑)
ゆうこりん、本当にありがとうございました。
えらい遅くなってしまいましたが(笑)、改めてお礼を申し上げます。
やはり「お国柄の違い」はとても感じられました。
東北の人はがまん強い、とマスコミでも良く言われますし、
私の知人の人もやはりそう。
こちらの人は、すごい遠慮しい、なんやなあと。
(ガマンにも限界がありますよね。)
「これ、大阪のおばちゃんやったら、もう、
ワーワー文句言ってるやろなあ、、、。」
という場面がいくつもありました。
というか、大阪のおばちゃんパワーは恐らく宇宙一、
かと思われるぐらいすごいので、あまり比較対象にはなりませんが、、、。(笑)
( とにかくすごい、です。
それ以外何と表現したら良いのかわかりません。(笑) )
1人、とても頭のいい友人がいて、
昔からジャーナリストを目指して勉強していて、
新聞社に入社。(現在はすでに退職。)
彼女がポツリと
「ボランテイアって一体なんなんだろう、、、。
一種の自己満足じゃない? どうしても一抹の疑問を持ってしまう、、、。」
と言ってたことがあって、、、。 うん、わかるよ、その気持ち。
誰だって持ってるかも、、、そういう疑問、多分。
でもいいじゃん、それでも。
行きたい人は止めても行くし、
行きたくても行けない人もたくさんいらっしゃる。
私も仕事が吹っ飛んでなかったら、行けない、行きたくても。
それぞれの事情を抱えて、日々の生活がある。
それが一番大事。
自己満足? うん、かもしれない。
後に5月6月に行ったときはさんざん行政から迷惑がられたし。
「わざわざ大阪から来て、よけいなことするな。」
的冷やか目線、バシバシ受けたし。(笑)
(参照)その168福島県は戒厳令下にあるらしい
でもいいじゃん、誰かに自己満足、と言われても。
だって、とにかく災害が起こったときは、大規模な長期間の
「人海戦術」
が絶対に必要なんだもん。
いちいち疑問感じてるより、動ける人は動く。
これ、全部日給で人を集めたらすごいことになってしまうよ?
大阪、必ず起こるよ、大地震。
とっくに期限が来てる。 人ごとじゃない。
全国の自己満足したい人、
行ける人はまだまだどんどん行ってネ。
と、あえて言っちゃう。 つづく
2011.
11.
20
故郷への愛・・・8

必ずもう一度ここへ戻ってくる、と決めて後にした
石神第一小学校 避難所の全景。
引き続き、ずっとこの避難所であわただしく
毎日同じことを繰り返して
あっという間に1週間がすぎてしまい、
大阪へもどらねばならない時間が近づいていました。
この間、とても気になったのは、
元気に動ける方たちは、この南相馬で1つ、2つ、
営業できている銭湯に行ってらしたのですが、
( 私たちも銭湯へ行ってました。)
自力で銭湯に行けない状態の、
介護の必要な高齢者の方々のことでした。
より重度の方たちはもっと遠くへ避難されていたと思うのですが、
この時は情報に乏しく、その実態はわかりませでした。
しかし、高齢の方はちょっとした環境の変化で
あっという間に動けなくなってしまう、ということは
過去の両親の介護経験でわかりすぎていました。
少なくともこの避難所の介護を要する高齢の方たちは、
この4月初旬の段階で、震災からまだ1度も
お風呂にはいれておられなかったのです。
ごく一部の方は、誰かが介助したとしても
一般の銭湯に入るのはむずかしいだろうな、、、。
と思われました。
ウチはシステムバスと給湯器施工のプロですから、
一旦大阪へ戻って、全て準備を整え引き返してきて、
敷地内か体育館内にお風呂場を1つ、設置させてもらえないだろうか、
と考えました。
ここは水道、電気はきているので、
土間がコンクリートとか板の間のようなものでさえあれば、
中でも外でも、玄関でも、
比較的簡単にシステムバスのお風呂場が1つできてしまいます。
脱衣場を作るのに木工事も必要ですが、
材料さえあれば何とでもなる、と思われました。
一番小さなお風呂ならそう場所をとることもなく、
不要になればバラして撤去するのも慣れているので
1時間もあればバラせてトラックに積んでしまえます。
せめて自力で銭湯までいけそうにない高齢者の方たちに、
いつでも気軽に気兼ねなく、入って頂くための
小さなお風呂がほしかったのです。
もちろん勝手にそんなことはできないので、
看護師さんたちに相談してみたところ、
ここは緊急時避難準備区域のため、原発の状況次第では、
ただちにさらに遠くへ避難しなければならないので、
大がかりな施工を要する設備設置はできない、とのことでした。
この当時の第一原発の緊迫した状況下では、
確かに言われてみればそれはその通り、
だと思いましたが、、、。
ここで避難生活を送る方たちは、ご自分の故郷でありながら
なんと何重にも重い十字架を背負ってしまったのだろう、、、。
そして私たちには何1つしてさしあげることができない、、、。
そう無力感を感じずにはいられないのですが、
私は子供の頃のあだ名が「ゴテやす」といわれるぐらい、
こう、と一旦思い込んだらゴテて、あきらめないタチなので、、、。(笑)
水、電気はきていますが、給湯器がないためお湯は出ません。
このころ、昼間はかなりポカポカ陽気になってましたが、
夜間の冷え込みはとてもきびしく、水は冷たく、
私の手も顔も、ガサガサに荒れていました。
「何としても、この高齢者の方たちを、気持ち良く入浴させたい。」
そう考えつつ、出発しなければならない時間がきてしまいました。 つづく

必ずもう一度ここへ戻ってくる、と決めて後にした
石神第一小学校 避難所の全景。
引き続き、ずっとこの避難所であわただしく
毎日同じことを繰り返して
あっという間に1週間がすぎてしまい、
大阪へもどらねばならない時間が近づいていました。
この間、とても気になったのは、
元気に動ける方たちは、この南相馬で1つ、2つ、
営業できている銭湯に行ってらしたのですが、
( 私たちも銭湯へ行ってました。)
自力で銭湯に行けない状態の、
介護の必要な高齢者の方々のことでした。
より重度の方たちはもっと遠くへ避難されていたと思うのですが、
この時は情報に乏しく、その実態はわかりませでした。
しかし、高齢の方はちょっとした環境の変化で
あっという間に動けなくなってしまう、ということは
過去の両親の介護経験でわかりすぎていました。
少なくともこの避難所の介護を要する高齢の方たちは、
この4月初旬の段階で、震災からまだ1度も
お風呂にはいれておられなかったのです。
ごく一部の方は、誰かが介助したとしても
一般の銭湯に入るのはむずかしいだろうな、、、。
と思われました。
ウチはシステムバスと給湯器施工のプロですから、
一旦大阪へ戻って、全て準備を整え引き返してきて、
敷地内か体育館内にお風呂場を1つ、設置させてもらえないだろうか、
と考えました。
ここは水道、電気はきているので、
土間がコンクリートとか板の間のようなものでさえあれば、
中でも外でも、玄関でも、
比較的簡単にシステムバスのお風呂場が1つできてしまいます。
脱衣場を作るのに木工事も必要ですが、
材料さえあれば何とでもなる、と思われました。
一番小さなお風呂ならそう場所をとることもなく、
不要になればバラして撤去するのも慣れているので
1時間もあればバラせてトラックに積んでしまえます。
せめて自力で銭湯までいけそうにない高齢者の方たちに、
いつでも気軽に気兼ねなく、入って頂くための
小さなお風呂がほしかったのです。
もちろん勝手にそんなことはできないので、
看護師さんたちに相談してみたところ、
ここは緊急時避難準備区域のため、原発の状況次第では、
ただちにさらに遠くへ避難しなければならないので、
大がかりな施工を要する設備設置はできない、とのことでした。
この当時の第一原発の緊迫した状況下では、
確かに言われてみればそれはその通り、
だと思いましたが、、、。
ここで避難生活を送る方たちは、ご自分の故郷でありながら
なんと何重にも重い十字架を背負ってしまったのだろう、、、。
そして私たちには何1つしてさしあげることができない、、、。
そう無力感を感じずにはいられないのですが、
私は子供の頃のあだ名が「ゴテやす」といわれるぐらい、
こう、と一旦思い込んだらゴテて、あきらめないタチなので、、、。(笑)
水、電気はきていますが、給湯器がないためお湯は出ません。
このころ、昼間はかなりポカポカ陽気になってましたが、
夜間の冷え込みはとてもきびしく、水は冷たく、
私の手も顔も、ガサガサに荒れていました。
「何としても、この高齢者の方たちを、気持ち良く入浴させたい。」
そう考えつつ、出発しなければならない時間がきてしまいました。 つづく
2011.
11.
19
故郷への愛・・・7
同日の夕方頃からさっそく、避難者の方たちがポツリ、ポツリと
めいめいに小さな手荷物を1つか2つだけ持って、
入口受付で記入をすませ、とまどいながら
体育館の中へと入ってこられました。
この初日の夜に到着されたのは、全部で30人ぐらい、
だったと思います。
一応名札を胸に下げていましたが、
安心して頂くために、自分の名前を自己紹介して
お年寄りの方は一番トイレに近く、
できるだけ落ちつける場所へと誘導させて頂きました。
こののち、この方たちは何ヶ月もの本当に長い間、
つらい避難所生活をしていかれることになります、、、。
(10月に閉鎖。市立陸上競技場管理棟に移転。
そこも仮設住宅の建設後に今年中には閉鎖見込み。)
落ちつく場所が決まると、大型のダンボールが
トラック一杯分ほどもあったので、
畳がわりにダンボールを敷いて、舞台上の布団、毛布類も
お好きなものを好きなだけ選んでもらい、
それらを運ぶ、という作業になりました。
お布団も敷きおわり、手荷物も下ろして少し落ちつかれた頃に、
夫が現場作業者の必需品、
腰から下げたナイフケースのカッターナイフ、
5Mメジャー、ケガキ用マジックで、隣との仕切りのための
ブースづくりにまわっていました。
メジャーを縦に伸ばして、それぞれお好みの高さを選んで頂き、
大型ダンボールにカッターで切り目を入れ、しっかり倒れないよう、
まわりがきちんと囲われてプライバシーが少しでも保てるように、
他のボランティアの方にも手つだってもらって、
ご希望通りにひと家族ごとにダンボールのブースを作る、
という作業を繰り返していました。
( 意外にも、ほとんどの方が
お隣とおしゃべりができる低めの高さを
お好みでした。)
<
4月当時の石神第一小の様子。 このころは、まだまだ少なかったのですが、
次回に行った時は、この赤いラインが全く見えなくなるほど一杯いらっしゃいました。
私たちはカメラを持っていかなかったので、当時のボランティア仲間だった
森のたぬきさんから写真をお借りしています。 たぬきさん、どうもありがとう。

外からの出入り口です。
私たち女性陣は、夜の食事用のおにぎり、レトルトのおかず、
飲料水、などの搬入、用意。
このときはまだ電子レンジがなかったので、
全部のストーブに大きめの鍋にお湯をわかして
レトルトを温めてゆく、という状態。
体育館を出て校舎内の2階に家庭科調理室があるのですが、
そこまでの行ったり来たりがかなり大変なので、
家から持参してきたカセットコンロ2台も大活躍。
ここは30キロ圏内のため、当時外での炊き出しは
一切できなかったので、離れた家庭科調理室と、
体育館の中での作業になりました。
( このあと、(その85)で出てきた
パワフルTさんが合流するようになってから、
少しずつ炊き出しメニューが充実していくようになる。)

体育館を出て、校舎2階にある調理室。
地元ボランティアのベテラン主婦の方たちが大活躍されていました
皆さんの食事が一通り終わってから
私たちも引き上げることになったのですが、
看護師さんが
「やっちゃんたちはどこで寝てるの?」
「ゆうべは車で寝たよ。」
「すごい寒いでしょう。ここで寝たら?」
「え、ホントにいいの? だったら助かるなあ、、、。」
「いいよお、もちろん。
まだまだスペースも布団も充分あるし、
私たちも心強いよ。」
と言って下さったので、一旦社協に戻って報告をすませ、
今日ご一緒した他のボランティアさんは、地元の通いの方、
今夜には東京へ戻らなければならない方、だったので、
私たちだけは明日からも引き続き、
ずっと石神第一小学校でのお手伝い、
ということになりました。
食事をすませてから体育館に戻り、
交代制でずっとここに泊りになる看護師さんたちとも一緒に、
この夜から避難所の中で、
皆さんと一緒に寝させて頂くことになりました。
戻ってからさっそく、今度は鍋、釜、やかんで
お湯をたくさんわかしていきました。
持参してきたペットボトル
( 1Lの首の白い、四角いヤツ。)に
熱湯をつめてタオルで2重にくるみ、
ゴムバンドで両はしをしっかりとめて、
湯たんぽをたくさんこしらえて、
女性の方とおじいちゃんの足元に、
「熱いようなら、外へケリ出して下さいネ。」
と、入れてまわりました。
自分用にも1つ、作りました。
ストーブもガンガン焚かれていたので、
体育館の中はそこそこ暖かい状態だったのですが、
私は普段でもむちゃくちゃ冷え性なので、
布団の中にアンカがなければ
自力で暖まることができないのです。
この当時で夜は0度近くまで下がっていたと思います。
これがとても暖かかった。
皆さんと同じように、下にダンボールを敷いて、
家から持参してきてた布団を敷いて、
足元ポカポカで、朝までぐっすりと眠りました、、、。
つづく
同日の夕方頃からさっそく、避難者の方たちがポツリ、ポツリと
めいめいに小さな手荷物を1つか2つだけ持って、
入口受付で記入をすませ、とまどいながら
体育館の中へと入ってこられました。
この初日の夜に到着されたのは、全部で30人ぐらい、
だったと思います。
一応名札を胸に下げていましたが、
安心して頂くために、自分の名前を自己紹介して
お年寄りの方は一番トイレに近く、
できるだけ落ちつける場所へと誘導させて頂きました。
こののち、この方たちは何ヶ月もの本当に長い間、
つらい避難所生活をしていかれることになります、、、。
(10月に閉鎖。市立陸上競技場管理棟に移転。
そこも仮設住宅の建設後に今年中には閉鎖見込み。)
落ちつく場所が決まると、大型のダンボールが
トラック一杯分ほどもあったので、
畳がわりにダンボールを敷いて、舞台上の布団、毛布類も
お好きなものを好きなだけ選んでもらい、
それらを運ぶ、という作業になりました。
お布団も敷きおわり、手荷物も下ろして少し落ちつかれた頃に、
夫が現場作業者の必需品、
腰から下げたナイフケースのカッターナイフ、
5Mメジャー、ケガキ用マジックで、隣との仕切りのための
ブースづくりにまわっていました。
メジャーを縦に伸ばして、それぞれお好みの高さを選んで頂き、
大型ダンボールにカッターで切り目を入れ、しっかり倒れないよう、
まわりがきちんと囲われてプライバシーが少しでも保てるように、
他のボランティアの方にも手つだってもらって、
ご希望通りにひと家族ごとにダンボールのブースを作る、
という作業を繰り返していました。
( 意外にも、ほとんどの方が
お隣とおしゃべりができる低めの高さを
お好みでした。)

4月当時の石神第一小の様子。 このころは、まだまだ少なかったのですが、
次回に行った時は、この赤いラインが全く見えなくなるほど一杯いらっしゃいました。
私たちはカメラを持っていかなかったので、当時のボランティア仲間だった
森のたぬきさんから写真をお借りしています。 たぬきさん、どうもありがとう。

外からの出入り口です。
私たち女性陣は、夜の食事用のおにぎり、レトルトのおかず、
飲料水、などの搬入、用意。
このときはまだ電子レンジがなかったので、
全部のストーブに大きめの鍋にお湯をわかして
レトルトを温めてゆく、という状態。
体育館を出て校舎内の2階に家庭科調理室があるのですが、
そこまでの行ったり来たりがかなり大変なので、
家から持参してきたカセットコンロ2台も大活躍。
ここは30キロ圏内のため、当時外での炊き出しは
一切できなかったので、離れた家庭科調理室と、
体育館の中での作業になりました。
( このあと、(その85)で出てきた
パワフルTさんが合流するようになってから、
少しずつ炊き出しメニューが充実していくようになる。)

体育館を出て、校舎2階にある調理室。
地元ボランティアのベテラン主婦の方たちが大活躍されていました
皆さんの食事が一通り終わってから
私たちも引き上げることになったのですが、
看護師さんが
「やっちゃんたちはどこで寝てるの?」
「ゆうべは車で寝たよ。」
「すごい寒いでしょう。ここで寝たら?」
「え、ホントにいいの? だったら助かるなあ、、、。」
「いいよお、もちろん。
まだまだスペースも布団も充分あるし、
私たちも心強いよ。」
と言って下さったので、一旦社協に戻って報告をすませ、
今日ご一緒した他のボランティアさんは、地元の通いの方、
今夜には東京へ戻らなければならない方、だったので、
私たちだけは明日からも引き続き、
ずっと石神第一小学校でのお手伝い、
ということになりました。
食事をすませてから体育館に戻り、
交代制でずっとここに泊りになる看護師さんたちとも一緒に、
この夜から避難所の中で、
皆さんと一緒に寝させて頂くことになりました。
戻ってからさっそく、今度は鍋、釜、やかんで
お湯をたくさんわかしていきました。
持参してきたペットボトル
( 1Lの首の白い、四角いヤツ。)に
熱湯をつめてタオルで2重にくるみ、
ゴムバンドで両はしをしっかりとめて、
湯たんぽをたくさんこしらえて、
女性の方とおじいちゃんの足元に、
「熱いようなら、外へケリ出して下さいネ。」
と、入れてまわりました。
自分用にも1つ、作りました。
ストーブもガンガン焚かれていたので、
体育館の中はそこそこ暖かい状態だったのですが、
私は普段でもむちゃくちゃ冷え性なので、
布団の中にアンカがなければ
自力で暖まることができないのです。
この当時で夜は0度近くまで下がっていたと思います。
これがとても暖かかった。
皆さんと同じように、下にダンボールを敷いて、
家から持参してきてた布団を敷いて、
足元ポカポカで、朝までぐっすりと眠りました、、、。
つづく
2011.
11.
18
故郷への愛・・・6
2日目から、社協の方に、
「避難所を1つ立ち上げるので、
その準備を手つだってもらえますか?」
という指示を頂いたので、6名チームになって、
新しく避難所となる「石神第一小学校」に向かいました。
この日の段階で、まだ20キロ圏に残っている人も居ることと、
一旦遠くに避難した方の中に、様々な事情で落ちくことができずに
この原町区に戻ってくる人もいる、などで避難所の増設が必要、
だったようです。
( しかし、ここ原町区は30キロ圏のため、避難所の数はかなり
限定されていたようです。)
まず広い校庭に入ると、校舎にも体育館にも
人の気配は全くないのに、
何故かたくさんのマイカーが駐車してあるので、
「、、、、?」
と思いました。
聞いてみると、原発避難命令が出た時に、
車でここまで逃れてきた方たちが
一時この体育館に一杯おられ、ここで車中泊もし、
ガス穴を起こしてしまい、車を乗り捨てて、
そののちバス移動したため、とわかりました。
みんなで広い体育官の中をキレイに掃除して、
ゴムシートを敷き詰め、つまづいたりしないよう、
養生テープで継ぎ目継ぎ目をしっかりと固定し、
ここは幸いなことに、体育館の中にトイレがあったので、
トイレの中もキレイに磨きあげました。
少しでも気持ち良く過ごしてもらえるよう、
隅々までキレイにしました。
問題はグランドピアノでした。
正面舞台前にドーンと置かれてあって、
これを舞台上に上げられたら、かなりスペースが確保できる、
と思いましたが、私たちにはもちろんとても無理でした。
そうこうしてるうちに自衛隊のジープが
大量の布団、毛布.類を積んで到着し、
隊員さんたちがどんどん正面舞台上に手運びを始めたので、
それを手伝おうとしたのですが、
「ありがとうございます。我々でやりますので、大丈夫です。」
とおっしゃるのに甘えてさせてもらい、
テーブルの設置、備品の準備などの楽な方に専念していました。
さらに2台目、3台目のジープが到着し、
またも満載毛布類を積んでいるので、
私は台車を2台持ってきていたので、
「すごい大変でしょう? これを使って下さい。」
と若い隊員さんに持って行ったのですが、
チラ、と隊長らしき方を見て、
「いえ、大丈夫です。」と、手運びされていたのですが、
しばらくのちに
「すみません、やっぱりお借りします。」
と、使ってくれました。(笑)
隊長さんにグランドピアノのことを相談すると、
「わかりました。まかせて下さい。」
と、隊員さん数人であのバカでかいピアノを楽々と持ち上げて
舞台上に上げてくださいました。
恐らく私自身、ここに来ていなければ自衛隊の方と
直に接する機会はなかった、と思いますがさすがに鍛え抜かれ、
規律と統制のとれた、訓練された方たちです。
例の迷彩服、ヘルメットの色は黒。
いつも憲法9条問題で様々な議論が繰り返されていることは
良く承知していますが、しかし作業を終え、
黒いヘルメットをとった彼らの生身の姿は、
ウチの若い職人さんたちとなんら変わりない、
まだまだあどけなさの残る、ごく普通の若い青年たち、です。
自衛隊が引き揚げたあとどんどん必要資材が運びこまれ、
( 超大型ストーブ2台、石油ストーブ3台、灯油タンク10個、
ブース設置用の大型ダンボールがトラックに一杯分、など、、、。)
このあたりでだんだんフラフラになってきました。(笑)
お布団と毛布類はたっぷりとあったのですが、
畳、というものはなくこのゴムシートの上に
直にお布団を敷くのはさぞ冷たいだろうな、、、。
と思われました。
(この翌日には、電気屋さんが来て大型テレビ、FAXなども
設置され、さらにずっとのちに、自ら避難者であり、
ボランティア活動を今も続けるYさんの尽力で
パソコンのネット環境もできていきました。)
この時、同時にこの避難所の運営をまかされることになった、
市立小高病院の看護師の皆さんが来られ、
打合せをされていました。
(この病院は、20キロ圏内で閉鎖され、
仕事がなくなってしまったために、
職員の方全員が震災復興の運営にまわっておられたのです。)
総責任者になる総婦長のMさんがごく率直に、
「一体どのように運営していけばいいのか、、、。
なにせみんな、あまりにも突然の始めてのことばかり、、、。
とにかく頑張るしかないよネ、、、。」
と、おっしゃって、、、運営をまかされた看護師の方たちは
全員が女性の方、しかもその中のお一人には
お腹に赤ちゃんがいらっしゃる、、、。
ということもあって、夫はますます
「俺がやらねば誰がやる、、、。」
と、二昔も前のアニメマンガ、
「キャシャーン」みたいなセリフをブツブツと言いながら(笑)、
ホントに良く働いてくれました。(笑)
この時は他の地域と比べる材料がなかったのですが、
それでもこの人力不足の実態はひしひしと感じられ、
「この南相馬は地震、津波、原発、そして風評被害、、、。
四重苦のために、取り残されてしまっている、、、。」
そう思わずにいられませんでした。
夫の顔色にも同じような、どこへもぶつけようのない
苦悩の色が見えて、、、。
「ここの被災者の人たちは一体どうなるんや、、、?
この人らの故郷は?
もしも原発が終息出けへんかったら、
このまま奪われてしまうことになってしまうのか、、、?」
そう叫んでいるのがわかりました。
つづく