2015.
04.
30
今日は朝からしとしと雨。
プラグの水管理もほとんどしなくていいし、
のんびり午前を過ごしてます。
でも夜の蝶のやっちゃんは、今日は3時半にはお仕事に出発。
今気づいた。世間は大型連休なのね、、、。
仕事は4時半からあくる日の9時まで。
(実際には5時からだけど、その前に申し送りがある。)
通勤に1時間程度かかるので、いつも大体このぐらいに家を出る。
およそ17時間ぐらいぶっ通しで勤務するワケなんだけど、
仮眠が取れるのはせいぜい30~50分も取れればいい方かな、、、。
日によって全然取れない時も多々ある。
朝の一番忙しい時間帯は正直言って頭がクラクラしてる。
こういう過酷な勤務なんで、
ほんとは月に6日以内程度にしとかないといけないらしいんだけど、
ずっと月8日やってる。
これがなんとか限度かな、、、。
今の介護事業所に勤めた時、
全くこの仕事の経験がなかったので、
最初に面接に行った事業所では、
「全然経験ないのにいきなり夜勤は絶対無理。」
だとことわられた。
今思えば当然だった。
2件目に面接に行ったのが今の所。
この世界のことを何にも知らず、
なんにもわからず、何にもできなかった私を、
よく今日まで辛抱強く教えて下さった、
夜勤スタッフ先輩方にはもうホントに大感謝。
ウチは昼勤スタッフと夜勤専門スタッフに分かれてる。
だけど昼勤の人は当時の人は誰も残ってない。
どんどん辞めていって、今も入れ替わりが激しい。
何故か夜勤者だけはほぼ全員残ってる。
やっちゃんもしぶとく残ってる。
実は過去2回、
「もう耐えられない。辞めよう。」
と思ったことがあった。
都度先輩たちに引き止めてもらった。
留まってほんとに良かった、と思う。
あのまま辞めていたら、
結局壁を乗り越えられずに終わってしまったと思う。
この仕事からも離れてしまったかもしれない。
今日までとにかくがむしゃらにやってきたけど、、、。
最近ようやく強いやりがいを感じるようになってきた。
それは過去経験してきた仕事とは全く違う種類で、もっと強い。
まだうまく表現できない。
そろそろもっと具体的な、明確な目標を持って
この仕事をやっていかなきゃな、と最近考える。
それが一体何なのか、、、?
まだ具体的につかめていないんだけど、、、。
プラグの水管理もほとんどしなくていいし、
のんびり午前を過ごしてます。
でも夜の蝶のやっちゃんは、今日は3時半にはお仕事に出発。
今気づいた。世間は大型連休なのね、、、。
仕事は4時半からあくる日の9時まで。
(実際には5時からだけど、その前に申し送りがある。)
通勤に1時間程度かかるので、いつも大体このぐらいに家を出る。
およそ17時間ぐらいぶっ通しで勤務するワケなんだけど、
仮眠が取れるのはせいぜい30~50分も取れればいい方かな、、、。
日によって全然取れない時も多々ある。
朝の一番忙しい時間帯は正直言って頭がクラクラしてる。
こういう過酷な勤務なんで、
ほんとは月に6日以内程度にしとかないといけないらしいんだけど、
ずっと月8日やってる。
これがなんとか限度かな、、、。
今の介護事業所に勤めた時、
全くこの仕事の経験がなかったので、
最初に面接に行った事業所では、
「全然経験ないのにいきなり夜勤は絶対無理。」
だとことわられた。
今思えば当然だった。
2件目に面接に行ったのが今の所。
この世界のことを何にも知らず、
なんにもわからず、何にもできなかった私を、
よく今日まで辛抱強く教えて下さった、
夜勤スタッフ先輩方にはもうホントに大感謝。
ウチは昼勤スタッフと夜勤専門スタッフに分かれてる。
だけど昼勤の人は当時の人は誰も残ってない。
どんどん辞めていって、今も入れ替わりが激しい。
何故か夜勤者だけはほぼ全員残ってる。
やっちゃんもしぶとく残ってる。
実は過去2回、
「もう耐えられない。辞めよう。」
と思ったことがあった。
都度先輩たちに引き止めてもらった。
留まってほんとに良かった、と思う。
あのまま辞めていたら、
結局壁を乗り越えられずに終わってしまったと思う。
この仕事からも離れてしまったかもしれない。
今日までとにかくがむしゃらにやってきたけど、、、。
最近ようやく強いやりがいを感じるようになってきた。
それは過去経験してきた仕事とは全く違う種類で、もっと強い。
まだうまく表現できない。
そろそろもっと具体的な、明確な目標を持って
この仕事をやっていかなきゃな、と最近考える。
それが一体何なのか、、、?
まだ具体的につかめていないんだけど、、、。
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2015.
04.
27
ここんとこ良いお天気が続いてて、
長いこと雨続きで全然できなかったけど、
畑仕事できるのがホントにうれしい。
夏野菜を色々植えました。
去年は大阪から引き揚げて来たのが夏だったので、
やっぱり全然落ち着かず、
夏のお野菜はなんにもできずじまいだったので今回が初めて。
ホームセンターで苗を購入。
スイカ、ナス、きゅうり、トマト、ピーマン。





いちご少~し実がふくらんできた。
うれしい~。

先日植えた小松菜たちは、
かっちゃん従兄に虫よけネットをたくさん貰ったので、
ガバ~っとネットかけました。
去年最初に植えた葉物もキャベツも、
すごい虫にやられた。
なんか蝶ちょが一杯飛んでるな~って思ってたら、
キャベツ、葉っぱの軸しか残ってないんだもん。
ネットかけたらなんとか大丈夫だった。
左手前はダイコン直播きしました。

ネット越しの葉物たち。
まだまだ小さいけど、こっから大きくなるの早いんだよね。
オブジェになるの、アっという間だもん。



花苗も全部植え終えて、
簡易ハウスがようやくからっぼになったので、
今年2回目の種まき色々しました。
前回とほとんど同じ葉物に追加でキャベツ、ニンジン。
初めてピーマン、ナス、赤かぶも蒔いてみた。

花タネも。
ブルーサルビア、ニチニチソウ、ケイトウ。

足を写すな~っ。
簡易ハウスはかっちゃんが、
「これではあまりにも見た目が悪いんちゃうか?」
って言うんで、
横木をちゃんとツラをそろえて鋸でカット。
ビス打ちもしました。

今までは縁の下から引きずり出してきた木を
テキトーに置いてただけ。
別にこれでちゃんと育ってたんだけどな、、、。

下はやっちゃんの種まきセット。
かっちゃんの亡くなったお兄さんが釣りが趣味で、
倉庫にこのケースがあったので使わせてもらってる。

中に種まきの時に使う耳かき、小皿、名札、マジックなどと、
オルトラン水和剤、ペンレート、マラトン乳剤、
挿し木に使うルートンなどのお薬を入れてる。

下はかっちゃん父が昔使ってた噴霧器。
4リットル入るからすごく重宝してる。
木にお薬散布する時にこれで散布する。
種まきした後、良~く洗って同じくこれでしっかりスプレーする。

鉢に植えたペチュニア。
この鉢、実は倉庫にあった昔なつかしい練炭火鉢。
縁をグラインダでカットして、底に穴を開けて、
残りもんのペンキでペイント。
りっぱな大鉢になった。
むちゃくちゃ重たい、、、。

畑に植えたペチュニア。

金魚草が少~しずつ開花。
これは少し背が高いやつ。

こっちは低いの。
ちゃんと咲くのかな?

冬の間完全に葉を落としてた柿の木が青々としてきた。
初夏の陽気で木々は、
ほんとに緑が目に痛いほどあざやかで濃い。
かっちゃん花が終わった久留米つつじを剪定中。
これをしないと来年花つきが悪いんだって。
長いこと雨続きで全然できなかったけど、
畑仕事できるのがホントにうれしい。
夏野菜を色々植えました。
去年は大阪から引き揚げて来たのが夏だったので、
やっぱり全然落ち着かず、
夏のお野菜はなんにもできずじまいだったので今回が初めて。
ホームセンターで苗を購入。
スイカ、ナス、きゅうり、トマト、ピーマン。





いちご少~し実がふくらんできた。
うれしい~。

先日植えた小松菜たちは、
かっちゃん従兄に虫よけネットをたくさん貰ったので、
ガバ~っとネットかけました。
去年最初に植えた葉物もキャベツも、
すごい虫にやられた。
なんか蝶ちょが一杯飛んでるな~って思ってたら、
キャベツ、葉っぱの軸しか残ってないんだもん。
ネットかけたらなんとか大丈夫だった。
左手前はダイコン直播きしました。

ネット越しの葉物たち。
まだまだ小さいけど、こっから大きくなるの早いんだよね。
オブジェになるの、アっという間だもん。



花苗も全部植え終えて、
簡易ハウスがようやくからっぼになったので、
今年2回目の種まき色々しました。
前回とほとんど同じ葉物に追加でキャベツ、ニンジン。
初めてピーマン、ナス、赤かぶも蒔いてみた。

花タネも。
ブルーサルビア、ニチニチソウ、ケイトウ。

足を写すな~っ。
簡易ハウスはかっちゃんが、
「これではあまりにも見た目が悪いんちゃうか?」
って言うんで、
横木をちゃんとツラをそろえて鋸でカット。
ビス打ちもしました。

今までは縁の下から引きずり出してきた木を
テキトーに置いてただけ。
別にこれでちゃんと育ってたんだけどな、、、。

下はやっちゃんの種まきセット。
かっちゃんの亡くなったお兄さんが釣りが趣味で、
倉庫にこのケースがあったので使わせてもらってる。

中に種まきの時に使う耳かき、小皿、名札、マジックなどと、
オルトラン水和剤、ペンレート、マラトン乳剤、
挿し木に使うルートンなどのお薬を入れてる。

下はかっちゃん父が昔使ってた噴霧器。
4リットル入るからすごく重宝してる。
木にお薬散布する時にこれで散布する。
種まきした後、良~く洗って同じくこれでしっかりスプレーする。

鉢に植えたペチュニア。
この鉢、実は倉庫にあった昔なつかしい練炭火鉢。
縁をグラインダでカットして、底に穴を開けて、
残りもんのペンキでペイント。
りっぱな大鉢になった。
むちゃくちゃ重たい、、、。

畑に植えたペチュニア。

金魚草が少~しずつ開花。
これは少し背が高いやつ。

こっちは低いの。
ちゃんと咲くのかな?

冬の間完全に葉を落としてた柿の木が青々としてきた。
初夏の陽気で木々は、
ほんとに緑が目に痛いほどあざやかで濃い。
かっちゃん花が終わった久留米つつじを剪定中。
これをしないと来年花つきが悪いんだって。

2015.
04.
22
4月に入ってほとんどず~っと雨で、
日照が悪すぎて、
しかも吹き降りの豪雨の時にたたきつけるような
雹(ひょう)まで降ってくるという、
もうあり得ない天候で、
畑の花たちにはほんとにつらい日々でした。
全国の専業農家さんはこの春、
ほんとに大変な思いをされたと思う。
自然が相手とはいえ、なんとむずかしい仕事だなあ、
と改めて実感する。
でも、ようやくおとつい~昨日あたりから、
お日さまが顔を出してきてくれました。
去年秋に種まきした時よりも
随分日にちがかかってしまったけど、
昨日やっと十分根が回った野菜苗たちを、
畑に植えました。
(黒いフィルムのマルチはめんどくさいからパス。)
小松菜

水菜

小かぶ

菊菜

チンゲンサイ

小松菜は去年3列に植えてものすご~く収穫しにくかったんで、
かなり余裕もたせて植えてみた。





いちご。
植える時にすでに赤くなってた小さな実、
全部食べちゃった。
稲わらは去年秋にお米刈りいれした時のを
かっちゃん従兄に分けてもらったヤツ。

これはジャガイモ。
植えたのが遅かったので心配したけど、
だいぶ育ってきました。良かった。

➝「やっちゃんのいきいき花苗育苗日記71」
更新しました。
今日のお花畑の様子、撮影しました。
日照が悪すぎて、
しかも吹き降りの豪雨の時にたたきつけるような
雹(ひょう)まで降ってくるという、
もうあり得ない天候で、
畑の花たちにはほんとにつらい日々でした。
全国の専業農家さんはこの春、
ほんとに大変な思いをされたと思う。
自然が相手とはいえ、なんとむずかしい仕事だなあ、
と改めて実感する。
でも、ようやくおとつい~昨日あたりから、
お日さまが顔を出してきてくれました。
去年秋に種まきした時よりも
随分日にちがかかってしまったけど、
昨日やっと十分根が回った野菜苗たちを、
畑に植えました。
(黒いフィルムのマルチはめんどくさいからパス。)
小松菜

水菜

小かぶ

菊菜

チンゲンサイ

小松菜は去年3列に植えてものすご~く収穫しにくかったんで、
かなり余裕もたせて植えてみた。





いちご。
植える時にすでに赤くなってた小さな実、
全部食べちゃった。
稲わらは去年秋にお米刈りいれした時のを
かっちゃん従兄に分けてもらったヤツ。

これはジャガイモ。
植えたのが遅かったので心配したけど、
だいぶ育ってきました。良かった。

➝「やっちゃんのいきいき花苗育苗日記71」
更新しました。
今日のお花畑の様子、撮影しました。
2015.
04.
22
九州電力川内原発1、2号機(薩摩川内市)の
地震対策は不十分だとして、
周辺住民らが再稼働の差し止めを求めた仮処分申し立てで、
鹿児島地裁は22日午前10時、請求を退ける決定をした。
➝<川内原発>再稼働差し止め認めず…鹿児島地裁決定
これで九州電力は今年7月の再稼働へ向けて、
予定通り進めていくものと考えられる。
福井地裁の決定とは明暗が分かれた。
避難経路の整備など全く整っていないにも関わらず、
この差し止め却下。
司法なんてやっぱりいいかげんなもんよね。
さぞかし九電と天下りとか複雑かつ密接に繋がってるんだろな。
特に周辺近隣自治体、
例えばついこないだ行ってきた隣接した出水市など、
30キロ圏内の道路整備などまだ全~然、という状態だった。
➝389篤姫ロケ地出水麓武家屋敷群
➝390映画「日本と原発」全国上映
いや、
それ以前に隣接自治体の整備や避難先の確保など、
本気でやる気があるのかどうか、それすらあやしい現状だと
あの日、出水市住人の人が言ってた。
原発直近はそりゃあ国も県も力入れて、
金、モノ、ヒトつぎ込んで急ピッチでやるだろう。
もう、直近だけ。
だけど万一の事故が起きた時に
放射性物質が飛散するのは直近だけでは到底すまない。
それが原発過酷事故の恐ろしさだ。
岩盤が動かないフィンランドなどとは全く違う。
揺れ動く日本列島に建てられた原発に、
絶対安全などありはしない。
たった10数年の間に阪神淡路と東日本大震災。
2つもの巨大災害直後のあの惨状を、
ことごとく破壊しつくす自然の破壊力の凄まじさを、
現地で目の当たりにした今となっては、
基準地震動がどうの、新規制基準がどうのと言われても、
そんなもんはしょせん机上の論理だと思えてくる。
それは鹿児島へ来て、
桜島の大噴火を眼前に見て、尚更強く感じる。
数千メートル上空まで噴煙と噴石が噴きあがる驚異の前に、
人間はただひれ伏すしかない。
そのもしものことが起きた時、
鹿児島は市内どころか
1部大隅半島を除き、
薩摩半島全域が影響する。
風向きがまともに南東方向に流れるであろうことは、
鹿児島県人ならば皆よく知ってる。
桜島上空の風向きを毎日チェックしてるからね。
福一原発の時のように海側へは1年の大半流れない。
50キロしかない鹿児島市内数十万の住人は逃げる場所もない。
ましてや南薩摩地域住人は海に飛び込むしか行き場がない。
➝346津波、原発、てんでんこ

上の地図を見てもらえれば一目瞭然だろう。
鹿児島で原発動かすことの愚かしさを。
地熱も太陽光も水源も豊富に恵まれたこの地で。
円の中心が川内原発。
地震対策は不十分だとして、
周辺住民らが再稼働の差し止めを求めた仮処分申し立てで、
鹿児島地裁は22日午前10時、請求を退ける決定をした。
➝<川内原発>再稼働差し止め認めず…鹿児島地裁決定
これで九州電力は今年7月の再稼働へ向けて、
予定通り進めていくものと考えられる。
福井地裁の決定とは明暗が分かれた。
避難経路の整備など全く整っていないにも関わらず、
この差し止め却下。
司法なんてやっぱりいいかげんなもんよね。
さぞかし九電と天下りとか複雑かつ密接に繋がってるんだろな。
特に周辺近隣自治体、
例えばついこないだ行ってきた隣接した出水市など、
30キロ圏内の道路整備などまだ全~然、という状態だった。
➝389篤姫ロケ地出水麓武家屋敷群
➝390映画「日本と原発」全国上映
いや、
それ以前に隣接自治体の整備や避難先の確保など、
本気でやる気があるのかどうか、それすらあやしい現状だと
あの日、出水市住人の人が言ってた。
原発直近はそりゃあ国も県も力入れて、
金、モノ、ヒトつぎ込んで急ピッチでやるだろう。
もう、直近だけ。
だけど万一の事故が起きた時に
放射性物質が飛散するのは直近だけでは到底すまない。
それが原発過酷事故の恐ろしさだ。
岩盤が動かないフィンランドなどとは全く違う。
揺れ動く日本列島に建てられた原発に、
絶対安全などありはしない。
たった10数年の間に阪神淡路と東日本大震災。
2つもの巨大災害直後のあの惨状を、
ことごとく破壊しつくす自然の破壊力の凄まじさを、
現地で目の当たりにした今となっては、
基準地震動がどうの、新規制基準がどうのと言われても、
そんなもんはしょせん机上の論理だと思えてくる。
それは鹿児島へ来て、
桜島の大噴火を眼前に見て、尚更強く感じる。
数千メートル上空まで噴煙と噴石が噴きあがる驚異の前に、
人間はただひれ伏すしかない。
そのもしものことが起きた時、
鹿児島は市内どころか
1部大隅半島を除き、
薩摩半島全域が影響する。
風向きがまともに南東方向に流れるであろうことは、
鹿児島県人ならば皆よく知ってる。
桜島上空の風向きを毎日チェックしてるからね。
福一原発の時のように海側へは1年の大半流れない。
50キロしかない鹿児島市内数十万の住人は逃げる場所もない。
ましてや南薩摩地域住人は海に飛び込むしか行き場がない。
➝346津波、原発、てんでんこ

上の地図を見てもらえれば一目瞭然だろう。
鹿児島で原発動かすことの愚かしさを。
地熱も太陽光も水源も豊富に恵まれたこの地で。
円の中心が川内原発。
2015.
04.
18
前回にひき続き、もう一度西郷さんのことを
書こうと思う。
やっちゃんは3年前、
かっちゃん母の介護をするために
鹿児島に残ろう、と決意した時に、
「郷に入っては郷に従え。
誰よりも鹿児島人らしい鹿児島人になっちゃる。」
とけなげにも考えた。
(甘かった。)
かっちゃん母の鹿児島弁を1人ひそかに練習して、
少しでもしゃべれるようにと努力したんだけど、
もう3年以上になるというのに結局大阪弁が全く抜けない。
「大阪のおばちゃんが他県の言葉でしゃべるのは、
犬にニャアと泣かすよりもしかして不可能か?」
、、、と最近ではもう、
ちょっとあきらめ気分になってる。
それでももっと鹿児島のことを知ろう、勉強しよう、
という気持ちは強かったので、、、。
鹿児島といえば西郷隆盛。
西郷隆盛といえば鹿児島。
ウチのかっちゃんがモロそういう人だった。
この傾向は都会に出た鹿児島県人会の人たちに
特に強い、と感じる。
かっちゃん手持ちの本を色々読んでみた。
彼はほとんど小説などの文芸書は読まない。
真剣に熟読するのは施工要領書、のみ。
唯一例外は郷土史と薩摩歴史書で、
特に西郷さん関連の本は何冊も読んでる。
幕末の話は大好きなんで、
今までもそれなりにあれこれ読んでたんだけど、
どちらかといえば坂本龍馬とか土方歳三フアンだったやっちゃん。
西郷さんのことはあんまり知らないことが多かった。
一番の謎は、
何故かっちゃんら鹿児島県人が
今もって西郷さんを深く敬愛するのか?
という一点。
それをひも解く最大の資料はやはり
「南洲翁遺訓」
だろう。
これは戊辰戦争における敗軍である荘内藩への
西郷さんの丁重かつ寛大な接し方に深く感動したという、
藩主酒井忠篤(さかいただずみ)以下荘内藩士ら76人が、
明治3年、なんと山形から遠くはるばる鹿児島まで訪れ、
しばしば西郷さんの教えを乞い、薩摩の人材教育を学び、
砲術や鉄砲や軍事調練訓練などをも受け、
その際に西郷さんから直々に学んだ数々の教えを詳細に記録し、
収録して著わし、本として出版したもの。
―であるらしい。
「命もいらず名もいらず、官位も金も要らぬ人は
始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、
艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり。」
これはその中の有名な一節。
そしてまた、やっちゃんが一番好きな一節でもある。
西郷さんは漢詩や手紙はたくさん残しているけれど、
著作、というものはないので、
西郷さんのお考えや哲学を知る上で、
現在に生きるやっちゃんたち鹿児島県人は、
この南洲翁遺訓を著し残して下さった荘内藩の方々に、
深い感謝の思いを抱かねばならない、と思う。
さらに。
荘内藩は西郷さんが下野した後も
二人の少年を選んで薩摩に留学させ、
彼らは陸軍少将篠原国幹の元に身を置き勉学していのたけれど、
とうとう西南戦争にまで従軍し、
西郷さんと共に戦死してしまうのだ。
「十年の役(西南戦争)起こるや従軍を篠原国幹に請う。
国幹、二人の年少なるを以って懇ろに諭し、
二人をして郷里に帰らさんと欲す。
二人がんぜずして曰く、
「吾、一身を西郷先生に託し其の恩を受くるや大なり。
而して今や、国家事あるに際し、
身を以って難に赴くは先生に報ゆる所以にて、
また国家に貢献する所為なり。」
固く請いて止まず。
国幹、其の決心を奪うべからざるを知り之を許す。」
と、、、。
年、わずか18才と20才だった。
現在、南洲墓地に西郷さんや篠原国幹らと共に眠っている。
この事実を知る人は、こんにちもはや荘内山形の人々の中にも
少ないのかもしれない、、、。
二人のうちの一人、
伴兼之の実兄秋保親兼が残している。
「とにかく西郷先生の偉大なる人格は、
幾百里を経つる我が荘内一藩を感化し、
数年前まで仇敵ただならざりし幾千の人士をして、
慈父のごとく敬慕せしむるに至った徳望は、
到底、所謂英雄豪傑の企て及び難いところである。」
ところがこの遺訓の出版は、
西郷と敵対した政府要人にとって好ましくないもので、
南洲翁遺訓出版の責任者であった赤沢源也は、
明治政府警視総監に呼びつけられ、
遺訓の内容を訂正してほしい、と言われ、
「一字一句でも手を入れられては、
西郷先生の精神を損なうから固くお断りする。」
と憤然として言い放った。
しかも。
旧藩主酒井忠篤公は遺訓が刊行されるやいなや、
遺訓を風呂敷に包んで旧藩士たちを全国各地に飛ばし、
彼らは文字通り風呂敷包みを背に背負って行脚し、
心ある人々に配布して回った、というのだ、、、。
そしてこの南洲翁遺訓は、
今なお版を重ね、多くの人に読まれ続けている。
過去においても多くの政治家や実業家や思想家、
あまた軍人や右翼らがこの遺訓を糧とし、あるいは利用した。
だけどその大方は、
西郷好きの西郷知らず、西郷好きの西郷気取り、、、。
ごくごく一部を除いて、
西郷さんとは似ても似つかぬ人がほとんどだった。
、、、とやっちゃんは思ってる。
荘内藩は戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と激戦。
秋田藩・新庄藩そして新政府軍本体による攻撃をも破り
連戦連勝したが、
周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、
ほぼ無敗のまま降伏し、開城して謹慎を命じられる。
新政府に反逆したとして改易に処せられ、
12万石に削減された上で存続を許された。
明治2年忠篤は罪を許され、明治3年には西郷さんを慕って、
藩士ら約80名と共に薩摩に留学することになる、、、。
西郷さんと西郷家に長年仕えた忠僕、
永田熊吉の証言が残っている。
「薩州人と荘内人とは旧怨を忘れて、
親友のようになりました。」
と、、、。
つい先ごろまで激戦を戦った旧敵同士が、
これはほとんど奇跡のようなできごとやなあ、、、と
やっちゃんはしみじみ感じてしまう。
薩摩は荘内に心底憎まれても当然だったにも係わらず。
荘内藩御藩主、藩士の方々、ならびに
荘内の人々の精神の高さに圧倒される逸話
だといえるだろう。
荘内藩と会津藩は共に幕末幕府方の雄藩であり、
共に薩長と激しく敵対しながら、
両藩のその後の運命は大きく違ってしまった。
そこには荘内藩の菅実秀(すげさねひで)という人物が存在する。
どうもこの人物がキーマンのようなのだ。
(戊辰戦争時軍事掛のち中老)
越後長岡藩の河合継之助のように有名ではないけれど、
菅に関してこのような一文を見つけた。
「、、、あえて言えば、
会津には菅実秀に匹敵するリーダーが存在しなかったのである。」
と、、、。
河合継之助は北越戦争で早々に戦死してしまっているし、
会津は幕末において京都守護職という難行を背負い、
新撰組をその傘下に抱え、反幕府勢力の憎しみを一手に買う、
という貧乏くじを引かされており、これは酷な言葉かもしれない。
河合継之助も生き延びてさえいれば菅に負けない働きを残したろう。
それにしても菅実秀の維新後及び直後の足跡は見事だった。
荘内藩の移封(国替え)を阻止し、
新政府に戦争責任者を差し出す段においても
藩主家老ら最高責任者は断固出さず、
すでに死亡している御重役の名を差し出し、
結局新政府側を納得させてしまった。
西南戦争勃発時にも沸騰する藩論を抑えきり、
「西郷先生は断じてそのような事は望んでおられぬ。」
と言って断固参戦同時決起させなかった事も
しかり、、、。
しかも藩主酒井忠篤公という方もまた
只者ではない。
選抜された藩士ら80人余りと共に薩摩に留学し、
一書生として西郷さんに師事し、誰よりも熱心に勉学に励み、
一兵卒として桐野利秋や篠原国幹ら大隊長の指揮によって、
鉄砲を担ぎ、皆と同じダンブクロを着て懸命に調練に励み、
藩士たちと寝食を共にし、
毎朝皆と一緒に自ら握り飯を握っていた、というのだ。
すでに時代は変わった、とはいえ、
その当時まだ廃藩置県は行われておらず、
しかも荘内藩は譜代大名の中でも有力な名門であり、
周りから「殿さま」と呼ばれる身がやはり只の人ではなく、
このような優れた殿さまだからこそ、
菅実秀は存分にその実力を発揮できたのだ、とも思える。
その辺に会津との運命を分かつ事情があるのかもしれない。
その後、酒井忠篤公は明治4年兵部省に出仕し陸軍少佐。
さらに兵学研究のため、
7年の長きに渡ってドイツ留学までされているそうだ。
帰国後は西郷さんなき政府に失望し辞官。
その晩年はバラ栽培なども楽しまれていたという、、、。
明治17年華族令によって伯爵。
荘内藩主酒井忠篤公
かなりシュッとしたイケメンなのでお写真ご紹介します~。

会津にも西郷頼母という優れたナンバー2が存在した。
だけど幕末においてその実力を発揮することは叶わず、
その一族は悲劇的な結末をたどり、
会津戦争敗北後、会津士族達の多くは
およそ人の住めない激寒の痩せ地下北半島末端に国替えさせられ、
飢餓地獄という過酷な運命に見舞われてしまう、、、。
会津藩にたいするこのような苛烈な処置の最大の首謀者は、
大村益次郎だった、いや山県有朋だった、いや木戸孝允だ、
とか諸説あるけれど、実際のところはどうなんだろう、、、。
大体優れたリーダーには、
卓抜したナンバー2が必ず存在するものだ。
いや、ナンバー2の底力をどれだけ存分に発揮させるか、が
優れたリーダーのあり方であるけれど、
人材発掘、人材育成、論功などをもひっくるめて、
それはむちゃくちゃ難しいものだ、といえる。
そこにこそ、ずば抜けた力を持つリーダーでなければ、
時代の荒波を越えることなどおよそ不可能だろう。
ましてや戦争とはおよそ
騙し合い、裏切り、陰謀謀略の果てに始まる、、、。
忠義も忠節も正義もクソもへったくれも無いのだ。
幕府方勝海舟の最大のライバル、とも言われる、
傑物小栗上野介さえもこの菅という人物を高く評価し、
早くから菅の実力を見抜いているのだけれど、
そもそも小栗は菅に西郷暗殺を命じてさえいるのだ。
暗殺は未遂に終わっているけれど、
この裏で幕府倒幕を狙った薩摩藩による大謀略活動があり、
それらが結局荘内藩による薩摩藩邸襲撃事件につながり、
ひいては戊辰戦争を引き起こすきっかけとなる。
戊辰戦争の混乱の中、
徳川慶喜が京都から大阪城に退いて滞在していたころ、
会津、桑名の兵士が大集結して騒然となり、
幕府方戦力の優勢が叫ばれていた。
(以下は藤沢周平の小説から。)
しかし菅は、
「その見方は甘い。
こういう非常時には戦力の多さなど決して頼みにならない。
俊傑一人の存在が頼みになる。
ところが関東方(幕府方)京都方(薩長土など)の動きをみると、
いつも関東方が京都方に機先を制せられている。
これは京都方に何藩の誰とは解らないが、
よほどすぐれた人物がいるに違いない。」
菅がその気配を察知した人物こそ
西郷隆盛そのひとであった、、、。
菅実秀は明治3年のみならず、
西郷さんが下野した後も再び遠く鹿児島まで西郷さんに会うため、
はるばる訪れているという。
、、、荘内藩の実質家老職に匹敵する実力者であった菅実秀は、
何よりも荘内藩の藩主や士族や多くの領民たちの
今後の行く末安寧をとにかくまず第一に考え、
英断実行した卓抜したリーダーであったと思う。
その人となりが自然西郷さんへと導いたのか、
遠くはるばる薩摩への留学、徳の交わり、遺訓の刊行流布、
へと繋がってゆくのである、、、。
山形県酒田市にも存する南洲神社
立派な像があるのにビックリ。
写真はワシモさんのHPよりお借りしています。
ありがとうございます。
菅実秀

西郷と対話する菅実秀

徳の交わり

旧藩中老・菅実秀は旧荘内藩士の先行きを考え、
養蚕によって日本の近代化を進め、
荘内の再建を行うべく開墾事業に着手、
明治5年、旧藩士3000人が荒野を開墾開拓し、
明治7年には 311ヘクタールに及ぶ桑園が完成した。
明治8~10年には大蚕室十棟が建設され
その後鶴岡に製糸工場と絹織物工場が創設された。
戊辰戦争の戦後処理で厚遇を受け、
以来親交していた西郷隆盛に相談し激励を受けたという。
、、、とここまで書いてきてやっちゃんは、
ハタ、と思いつく事があった。
やっちゃんちのある鹿児島県吉田地区に、
西郷さんの下野後、
上記の荘内藩と同じように、
桐野利秋ら私学校士族たちが開墾した、
広大な開墾跡地が残っているのだ。
さらに。
桐野利秋の開いた開墾地とはまた別に明治8年、
西郷さんはこの地に吉野開墾社を設立。
県令(知事)大山綱良から土地の払い下げを請け、
私学校生徒らと共に開墾事業を始めている。
西郷さんも武村の自邸からせっせと開墾地に通い、
生徒たちと共に鍬を振るっただけでなく、市街地から肥を集めて、
自ら馬に肥を乗せて何度も開墾地に運んでいるのだ。
西郷さんはどうも馬の扱いがかなりヘタだったらしく、、、
肥をひっくり返したりしたこともあったみたいなんだよね。
こういうとこも愛されるんだろうなあ、、、。
開墾社から西郷さんが大山巌(従兄弟同士 明治政府側)に
何度か送った手紙には、
「おからの汁に芋飯 食い馴れ候」
などと書かれており、
私学校生徒達と共に汗を流して開墾事業にいそしみ、
充実した日々を送る西郷さんが活き活きと手紙に綴られているのだ。
昼は農業、夜は学問に励むこの学校は、
40ヘクタールという広大な土地を開墾し、
開墾事業は軌道に乗ったか に見えた。
だけど、、、
時代の嵐はそういう西郷さんの願いを許さなかった。
西郷さんの意志に反して、
明治10年、西南戦争へと雪崩れ込んでしまうのだ、、、。
自ら農夫となって元士族たちの将来を開こうとした西郷さんの夢も
この西南戦争の勃発と共に費えてしまった、、、。
私学校は主に軍事訓練をしていた、というけれど。
私学校は軍事集団だった、というけれど。
それを恐れた明治政府側は
薩摩内の武器庫の武器を勝手に密かに運び出したり、
政府側密偵を潜入させたり、
西郷暗殺事件などがついに私学校生徒らの怒りを爆発させ、
結局薩摩は西南戦争に雪崩れ込んでしまうのだけれど。
だけど西郷さんは私学校士族らに農政を奨励して、
農業生産をもっともっと挙げて薩摩の農業立国を望んでいた。
でなければ、相当の強い志なくしてあれほど広大な土地を、
苦労して開墾など到底できるはずもなし。
当時重機など何もなく、広大な荒地を人力で開墾するなど、
まさに至難の難事業だったに違いないのだ。
だったら彼らが目指していたのは全く王道だと思う。
国を富ませて民を養い兵を強くする。
ほんとに正しいじゃん。
ついでに言うと、
西郷さんは私学校(最盛期は本校の他136の分校があった)や、
最も力を入れた吉野開墾社だけでなく、
英国人医学者ウイリアム・ウイルスを招聘して鹿児島医学校、
砲隊学校(砲兵技術)、
さらに賞典学校(洋学、語学)なども創設してる。
西南戦争当時、薩軍の戦死者の周りに、
英語や仏語の単語帳が散乱していた。
それは戦闘の合間にも語学を学ぼうとしていた、
この賞典学校の生徒達だった、と言われている。
歴史にもしも、は許されないにしても、、、
もしもあの時何事も起こらなければ、、、
これらの多くの生徒達の中から優れた人材が、
明治の世に、あるいは世界に向けて、
どれほど巣立っていったことだろう、、、。
島津斉彬が存命だったならば、
農政振興とともに近代産業をさらに推進して、
薩摩産業革命を起こしていっただろうけれど、
斉彬はすでに早世し、超保守派外国制文物全部大っ嫌い、
の島津久光の下ではそれはさすがに無理―だったに違いない。
さらに。
日本初代の陸軍少将であった桐野利秋。
彼が開いた吉田郷宇都谷(うどんだに)の開墾跡地は、
やっちゃんがいつも行く古い小さな温泉への途中にあるので、
何度もここに立ち寄った事があるのだけれど、
彼の生家のすぐ近くでもあるらしい。
市街地からはだいぶ離れていて、
当時は原野としてほとんど打ち捨てられていた土地だった。
彼の育った家は言語に絶するほどの貧しさだった。
その貧しさの中で想像を超える努力で薩摩示現流の超達人となり、
その強さというのはほとんど魔物のようで、
新撰組局長近藤勇が「桐野だけは避けろ」と言うほどだった。
陸軍少将であり、
また(小説の影響で)人斬り半次郎の異名が有名なんだけれど、、、
やっちゃんはいつもこの広大な開墾跡地に立つと、
彼の本質が見えてくるような気がするのだ。
彼の本質は、いわゆる世の人のイメージ、
剣の達人、豪放磊落、典型的な薩摩隼人、荒々しいぼっけもん、、、
であると同時に、その本質は郷土を愛し、大地を愛し、
ひたすら西郷さんを慕う純朴清廉な青年だったのでは、と、、、。
彼の残した日記を読むと暗殺者などというイメージは、
小説の中だけで創られた大きな間違いだとすぐわかるし、
(たしかに西南戦争でも戊辰戦争でも幕末でも、
人は沢山殺傷しただろうけれど、
桐野が暗殺目的で人を殺傷したのは唯一度だけ、
しかも藩の命令でやむを得ずだった。)
むしろ繊細なまでの内面すらが感じられてしまうのだ。
逞しく長身の桐野が全身を汗に濡れそぼち、
血のように赤々と燃える夕日に染まって一人黙々と、
あの広大な荒地を開墾する姿が目に見えるようだ、、、。
薩摩藩の士族は何故か、
当時の平均的日本人よりかなり背が高い人が多くて、
その理由はコメはあまり食べれなくても、
戦国時代からずっとイノシシや豚は良く食べていたからだ、
という説がある。
薩摩藩は昔から獣を食べるのに全然抵抗がなかったんだろうな。
日本人男性平均が大体155cmで、
桐野さんも大久保さんや村田新八や別府晋介や、
その他も180近くやそれ以上ある人が多い。
薩摩藩が集団で歩くと、
その背丈の大きさから異様な威圧感を放っていたらしい。
当時、薩摩藩の集団が歩いていると新撰組は、
「右に曲がるぞ!!」
と避ける事も多かったという。
桐野利秋 陸軍少将
彼もかなり爽やか系イケメン~。
やっぱり人気あるみたいで、
お墓は西郷さんに次いでお花の数が多いんだよ。
おしゃれな人だったからオーデコロンもお供えしてあった。

海音寺潮五郎氏は明治34年のお生まれで
鹿児島の方なので、父や祖父先輩諸氏から
西郷さんや桐野さんの逸話を直かに色々聞かれてるんだけど、
その先輩から聞いた話に、昔柳橋に出ていた名妓の人が、
「あの当時一番印象に残ってるのはダントツ桐野さん。
私は生まれてから今まで、
桐野さんほど男らしい男の人を見た事がありません。
男の中の男というのは桐野さんの事をいうのだと思います。
あの当時、東京中の芸子は一人残らず、
桐野さんに岡惚れしていました。」
なんだって~。
うん、わかるわかる。
実はやっちゃんもかなり好き、、、。
西南戦争の戦犯を桐野一人に押し付ける説があるけれど、
それは絶対に違う。
当時、全国に充満する不平士族の存在、という社会背景。
それは行き場も食い扶持も特権も、
拠り所とする武士の誇りも何もかも全てを失った、
空前絶後の全国規模の大リストラ集団の存在だ。
薩摩士族たちもそれは同様で、
なんとしてでも彼らの行く末が成り立つように、と
西郷さんは考えたに違いないのだ。
同時に打ち砕かれた薩摩士族たちの矜持を
少しでも取り戻してやりたい、とも考えたに違いない。
あのまま何事も起こりさえしなければ、
彼らは少しずつ時代に順応して、時代に呼応して、
各々が生きる道を模索して、
新時代と郷土に若い力を発揮し花開く時が来たに違いないのだ。
西郷さん という偉大な指導者の元に、、、。
当時、実際に起こってしまった士族の反乱を考えると、
薩摩士族たちの暴発も一触即発の状態だった。
導火線に火を点じさえすれば一気に燃え上がってしまう状態。
さらにいえば、
西郷さんは周りからの暴発誘導に乗ったりする人ではない。
また反乱を起こす考えなど露ほども無かった、という事実は、
当時の西郷さんの行動が全てを示している。
それ以前に実際に反乱を起こした首謀者たちは、
起こす前に頻繁に会合開いたり、
しょちゅう人と会ったり檄文書いたりしているけれど、
西郷さんはその真反対。
絶対にうかと決起を望む他藩人らと会わないように、
薩摩士族ともあまり会わないようにあえてほとんど自宅にも居らず、
家人ですら西郷さんが今日はどこの御山で狩をしてるのかわからず、
独り黙々と山野で猟をするか、
あるいは開墾地で鍬を振るうかしているのだ。
ちょっとした言動すらも決起の材料にする激発する輩は大勢いた。
そんな連中とは会わないのが最良だろう。
むしろ桐野は西郷さんのお考えに忠実に、
自分自身も私学校士族たちにも、かなりそれを抑えていた、と思う。
でなければあれほどの難事業である開拓を苦労してやりはしない。
吉野開墾社においても桐野は私学校士族らに
開墾指導をしているのだ。
それに意図的に巧妙に、
導火線に火をつけたのはむしろ明治政府側だろう。
佐賀の乱の時の大久保利通の残忍で巧妙なやりかたを見たら、
意図的に暴発させたのはまず間違いない。
(だから大久保は嫌われる。江藤新平かわいそすぎるやろ、、、。)
しかも予想される薩摩士族の反乱は、
明治政府にとって最大の脅威であり、
なんとしても薩摩士族そのものを
徹底的に壊滅させてしまわなければならない。
一旦大爆発を起こしてしまった巨大集団を抑えることは、
西郷さんといえどももはや不可能だった、、、。
例えれば、それはあたかも足元から
火山が噴火するようなものではないだろうか?
桜島は常時小噴火してるので、
御山から白い煙が出てない時の方が珍しい。
ところが数年に数回3000M級の、
さらに数百年に一度10.000M級の大爆発を起こす。
それと同じだ。
人知では如何ともしようがない。
だけど彼らだけを死地に行かせることなどできない人だった、、、。
「おいのこん身体、おはんらに差し上げもんそ。」
という言葉が全てを表している、、、。
ある作家さんが西郷さんの本質を指して、
「悲しみの共感力。」
という言葉で言い表していたけれど、
それはまさしく言いえて妙 だとやっちゃんも思う。
敗者に対して、弱きものに対して、
あるいは貧しきもの達に対する西郷さんの共感力、
というのはあまりにも巨きすぎた。
もはやすでに反乱を暴発させてしまった私学校の、
今まで自分をひたすら慕ってくれた多くの若者たちを、
見捨てて彼らを新政府に差し出す、
などということは絶対にできない人だったろう。
彼らと共に死んでいく
ということが西郷さん、という人なのだ。
維新後の、特に西南戦争時の西郷さんの行動には
謎が多い、とは良く言われることだけれど、、、。
(つまり戦争のやり方がヘタクソすぎたりするから。
というか、西郷さんがほとんど指揮系統に関わっていないから。
桐野始め大隊長らがほとんど作戦指揮していた。
西郷さんは終わり近くになるまでほとんど口出ししていない。
というより、終盤の全軍解散命令が唯一の命令だったかも。
だけど西南戦争勃発直前までの行動は謎でもなんでもない。
西郷さんの行動も考えも終始一貫している。
なんでみんな謎だっていうんだろう、、、?)
、、、以下は前記事に書いた内容だけど、再度書かせて下さい。
「おいのこん身体、おはんたちに差し上げもんそ。」
若い士族たちにそのように告げ、
自らが自刃することによって、
意図的に全てを終息させようとした。
つまり全国の武士の象徴たる自身を自ら抹殺した。
それによって今後、
大久保ら優れた政治家たちの手によって引き継がれ、
列強に対抗できうる近代日本への
真の夜明けが成される事を彼は渇望していたはずだ。
大久保らが欧州視察で留守の間に実行した政策見てもそれは明らか。
そのためにこそ人生をかけて維新を成し遂げてきたからだ。
またその為にこそ、
あまりにも多くの同志や人々を非業の最期に死なせてきたからだ。
事実これ以降、士族の反乱は一切起こっていない。
大西郷の死によって全国の士族たちは
「終わった。」
、、、と腹の底から認識したに違いない。
ここに武士の世の中は完全に終わりを告げた、、、。
西郷隆盛という人は自ら始めた維新への道を、
さらに自ら完結させた。
、、、というやっちゃん史観なの。
さらに。
ここで西郷さんのお心の内に分け入ってみよう。
(英雄たちの選択 の口調で、、、)
「短い間でごわしたが、おいが心を込めてお仕えし、
お育てもうした明治天皇に反逆する気は露ほどもござりもはん。
確かに、おいも含めて多くの人が、
現政権に対して不満に思う事は多々あれども、
陛下の御世がどうか栄えあれ
と祈る気持ちになんの変わりはござりもはん。
おいの身体はおはんらに差し上げることはでき申す。
しかし、陛下への衷心、
こん心は誰にも差し上げることはできもはん 、、、。
、、、だからおいには一切戦闘指揮は執れもはんが、
一切の責任はこんおいが全て取り申す。
おはんらと共に死に申そう。」
、、、ってやっちゃんは想像するんだけど。
矛盾といえば大いなる矛盾を抱えた
西郷さんの苦難の人生生き方を想う時、
やっちゃんはいつも、
あまりにも西郷さんがかわいそうでお気の毒で
たまらなくなってしまうのだ、、、。
(あ、、、また泣けてきた、、、(涙)。)
だから戦争前も戦争中も戦争終結直前も、
具体的な政府批判も檄文も時世の句も、
一切何一つ西郷さんは何にも残していないんだよね。
(この矛盾をなんと表現しようもないよね。)
しいていえばただ一言、
「政府に尋問の筋之有。」
とだけ、、、。
実際に反乱起こして政府ひっくり返して、
勝つ気満々だったら普通こんな書き方しないと思うよ。
反乱決起した時に良くみかける檄文などとは全く違ってる。
西郷さん亡き後の明治天皇の、
西郷さんへのお気持ちやお言葉行動、
などを考え合わせると、こう推測せざるをえないんだよね。
(ほとんど毎晩のように周囲の人に、
西郷さんの思い出話をされたりしていた。)
西郷隆盛が自ら鍬をとり、
若い士族たちに指導した南洲翁開墾跡地。
この近くにやっちゃんちがあるんだよ~。
実はこの石碑はものすごく巨大で、
初めて見たときはこの大きさにびっくりした。
ちなみに書はアドミラル東郷、つまり東郷平八郎の手によるもの。

南洲翁開墾跡地の石碑の横に、
島津斉彬公の集成館事業のひとつの寺山炭窯跡がある。
下の写真がそれ。
残念ながら薩摩では石炭を産しないので、
ここで良質で固い備長炭のような炭を製造し、
それを反射炉で燃焼させ、1500℃の高温で熔鉄し、
鉄製の大砲や砲弾を自家製造した。同じような窯が3基あったらしい。

アドミラル・東郷( Admiral Togo 東郷提督)
すなわち海軍大将東郷平八郎について
日露戦争でロシアバルチック艦隊を殲滅したことで知られ、
今も各国の海軍が崇拝し、東洋のネルソンと呼ばれている。
西郷さんと同じ郷中(町内)で育った。
薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では藩の海軍隊士として
阿波沖海戦、宮古湾海戦に参戦。
維新後は西郷さんの薦めでイギリスへ留学し、海軍の基礎を学んだ。
西南戦争の時は留学中だったが、
もし日本に居れば、西郷さんと共に戦った、と語っている、、、。
世界的に人気があり、
英国のネルソン、米国のジョーンズと共に世界三大提督と称され、
アドミラル・トーゴーとも称される。
昭和9年に没し国葬で多磨霊園に葬られたが、
郷土鹿児島で起きた薩英戦争の激戦地を見下ろす地にも
遺髪が埋葬され、お墓と銅像が建てられた。
今も鹿児島に海外の軍艦が寄港した折には、
多くの海軍艦長や乗組員らが墓地を訪れている。

西南戦争の凄絶と悲惨さはあまり全国的に知られていない。
例えば、怪我人を収容していた野戦病院での
負傷者達への政府軍による虐殺行為や、
薩軍兵士遺体への蹂躙は言語に絶する惨いものだった。
戦争があるところ、
必ずこのような略奪、虐殺、暴行が繰り広げられる。
昔も今も全く同じだ。
今も地球のどこかでこういう虐殺暴行が
現に行われている。
、、、戦争とは、、、なんとむごいものなのだろう、、、。
明日は我が身かもしれない恐怖を感じる、、、。
ともあれ、これだけの悲惨な戦争を引き起こし、
多大な死傷者を出した全ての責任は西郷さんに帰せられる。
だからこそ、一言の弁明もせずに粛々として死に望まれたのだ。
西郷さんにとって最大のご主君は
「三百諸侯に並びなき英傑」
と英邁を謳われた名君島津斉彬公だった。
江戸時代、世間から驚嘆を込めて、
「薩摩に暗君なし。」
と言われるほど、
特に戦国時代、島津家中興の祖といわれる
島津忠良(日新斎じっしんさい)が出てから後、
薩摩藩には暗愚の主君が出ず、
綺羅星のごとく名君を輩出した中で、
わけても不世出の名主が斉彬公だった。
斉彬公のことを書くには記事をあと2記事ぐらい書かないと
とてもじゃないけど書ききれないけれど、
西郷さんにとって斉彬公は最大の師であり、大恩人でもあり、
神にも等しい存在だった。
急逝されたこのご主君の名を口にするだけで
慟哭したいほどの篤く深い忠誠と敬愛を終生持ち続けた。
斉彬公が越前松平春嶽に送った書状に、
「私、家臣多くあれど間に合う者少なし。
なれど西郷一人は薩摩の大宝なり。
しかしながら、かの者悍馬なれば、
彼を使いきれる者は私でなくては無理であろう。」
と書いている、、、。
およそ万を超える薩摩家臣団の中から、
下っ端のまだ下の下のお役にいた
まだ若き西郷さんを見出したのもすごい、と思うけれど、
この二人の主従を越えた結びつきについてはまた別の記事に
じっくり書きたい、と思う、、、。
、、、次に西郷さんの最大の理解者であり無二の友でもあった、
勝海舟について書く。
これも考えて見れば普通ありえない話。
もともと二人は敵同士なんだものなあ、、、。
坂本竜馬は初めて西郷さんと出会った直後、
「西郷という奴、わからぬ奴だ。
小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう。」
勝海舟の紹介で西郷さんに会った坂本竜馬は
このように感想を漏らしている。
これに対して勝は、
「坂本もなかなか鑑識のある奴だ。」
と坂本の人を見る目の確かさをほめている。
(総じて薩摩の武士は無口だったので、
初対面の人にはボ~っとした印象を与えたんじゃあ
ないのかなあ、、、?
アーネスト・サトウも初対面そんな印象を書き残してる。
そのくせ鹿児島は結構ユーモアが好きでうまくて、
大阪の爆笑ボケツッコミ とはまた全然違う、
ちょっとひねった冗談がうまいなあ、、、と思う。)
さらに江戸城無血開城に貢献した勝海舟によれば、
坂本竜馬が西郷に及ぶことができないのは
「その大胆識と大誠意」
であるとしている。
勝と西郷が国運を賭けて相対したのは明治元年3月。
歴史的には薩摩藩邸での会見で全てが決まった とされているが、
その前後に討幕軍の本陣が置かれた池上本門寺内の奥庭、
松濤園の四阿(あずまや)での話し合いが数回あった。
(そりゃたった1回で決まるないような内容じゃあないもんな。)
事前の山岡鉄舟による尽力も大きく、江戸城の無血開城が決まった。
これによって江戸の町は戦火を免れた。
勝海舟の記した氷川清話によれば、
西郷は勝のいう事をいちいち信用し、
その間1点の疑問も差し挟まず、
江戸城明渡し、新政府軍の進撃中止などの勝の申し出を、
何も条件を付けずに飲んだ。
「いろいろむつかしい議論もありましょうが、
私が一身にかけてお引き受けいたします。」
勝は西郷さんの大胆識と大誠意に驚愕する。
血気にはやる新政府軍が江戸を目指して進軍中で、
一方幕府側は優勢な海軍力で新政府軍を粉砕しようと
意気込んでる状況だった。
二人の談判が始まる前から次の間には、
桐野利秋らの豪傑連中が多数、
息をこらして様子をうかがっていたらしい。
「薩摩屋敷の近傍には官軍の兵隊たちが
多数ひしひしと詰め掛けていて、
そのありさまは実に殺気陰々として物凄いほどだった。」
と。
そんな殺気立った状況の中で西郷さんはその言葉通り、
新政府軍を見事に一つにまとめてしまう。
勝はさらに言う。
「西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人民)も、
その生命と財産とを保つことができ、
また徳川もその滅亡を免れたのだ。」
と、、、。
もう一つ勝を感嘆させたのは西郷の態度だった。
「西郷が俺に対して幕府の重臣たるだけの礼を失わず、
談判の時にも始終座を正して手を膝の上に載せ、
少しも戦勝の威光でもって、
敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった。
その胆量の大きい事はいわゆる天空海闊で、
見識ぶるなどという事はもとより少しもなかった。」
と記している。
勝海舟は新政府軍の進撃を防ぐ為に、
新門辰五郎(しんもんたつごろう)ら火消しの頭や
任侠の親分などに江戸市中を焼き払う事を事前に頼んでいた。
と同時に房総沖にありったけの船を集めておいて、
逃げ遅れた難民を救出する手はずも整えていた。
もしもこの時、双方が決裂していたら、
江戸城はもちろん江戸の町は焼け野原になってしまい、
新政府太政官を江戸に置く事は物理的に不可能であり、
日本の首都は大阪になっていたんじゃあないだろうか、、、?
西郷さんが下野する原因となった征韓論にも少し触れておきたい。
これに関しては地元鹿児島県民でさえ多くの人が
誤解しているようなのだ。
ウチのかっちゃんですらそうなのだ。
数年前、
韓国前大統領が欧米あちこちで日本の悪口言いまくってて、
特に嫌韓意識が沸騰してた頃、
ウチのかっちゃんも同じく前大統領の反日政策に腹を立てていて、
「やっぱり西郷さんは偉かった。
朝鮮討つべしってゆうてはったんやからな。」
と言い出してやっちゃんは驚いてしまったのだ。
また別の機会で、とある県民のおいちゃんが、
「西郷さんはもちろん大好きなんだけど、
征韓論だけは西郷さんらしくなくて、
私は受け入れられないんですよね。」
って言い出す始末。
これでは西郷さんがあまりに可哀想だ。
第一、西郷さんご自身は一度も征韓とは言っておられないのだ。
あくまでも遣韓、交渉、外交、なのだ。
当時、ロシアの脅威が目の前にせまっていた。
朝鮮と日本と清国とで共同団結して対ロシア戦線を張らなければ、
東アジアは全てロシアに蹂躙されてしまうだろう、
という構想を抱えていた。
(これはもともと、島津斉彬、勝海舟構想だった、
という説がある。)
当時、欧米は日清同盟が成立するだろう、
と想定していたので、
この構想が荒唐無稽で絶対に実現不可能だった、
とは断言できない。
西郷さんは用意周到に事前に、
清国と朝鮮に密使を派遣している。
その際に清国の武人であり政治家でもある、
左宗党(さそうとう)という人物と折衝を重ねていて、
その内容を詳細に語る後年の彼の談話が残っており、
驚くべきことに、
先の対露防衛を目的とする日清韓三国同盟戦略構想の詳細が、
彼の口から事細かに語られているのだ。
当時清国も対ロシア脅威を抱えており、
左宗党氏は後年、
「自分は西郷の提議を大いに壮とし、
極力これに協賛すべく密約した。」
と語り、
「ところが惜しいかな日本は西郷を容れることなく、
その壮図を空しくさせ、しかも西郷を殺してしまった。
その損耗は、我が国(清国)における、
アヘンの害を蒙るどころではなくはるかに大きいだろう。」
とまで語っているのだ。
歴史にもしもは許されないけれど、
この時の西郷遣韓使節論が全くの暴論 ではなかった、
ということだけは言えるんじゃあないだろうか?
もしもこれが実現していたら、
果たしてアジアの歴史はどうなっていただろう、、、?
さらに。
万が一、外交交渉が不首尾に終わった場合に備えての、
戦争準備をしておく事さえも、
相手に対して非礼だからそれは絶対してはならぬ、
とまで訴えておられるのだ。
この問題が政府で沸騰していたその真っ只中に、
西郷さんが太政大臣にあてた建白書と、
公式かつ最終的な見解を示す始末書などが残っていて、
それを詳細に検証しても、すぐにわかる話なのだ。
ああ、、、それなのに。
一体何故、こんな事になってしまっているのか?
一体なぜ、西郷隆盛イコールゴリゴリの征韓論者!
西郷は武力を以って朝鮮打つべし! と強主張し、
それによって全国旧士族のはけ口とする、
などと暴論を繰り広げたあげく、
木戸や大久保、岩倉らの内政優先論に阻まれ政府を去った。
、、、などどいう事になってしまっているのか?
なぜ西郷さんの主張が全く正確に伝わっていないのか?
元々、木戸や岩倉や大久保の方がゴリゴリの征韓論者であり、
維新後早々の明治元年からその前提で対朝鮮外交を繰り広げ、
全く進展を見ないばかりか拗れにこじれてしまっており、
結局明治5年、軍艦で乗り込んでいって、
強引に釜山の草梁倭館(そうりょうわかん)を
強行接収(のっとり)、
朝鮮側に無断で外務省管轄としただけでなく、
名も勝手に大日本公館と変えてしまう。
(草梁倭館は朝鮮王朝から単に貸与されていた施設)
それだけではない。
あげくに三井組が勝手に貿易活動を行い、
ついに朝鮮側を激怒させた。
明治元年から延々続いたこれらの拗れた状況から、
政府に報告された内容は過激そのもの、
ついに明治6年、
閣議に乗せられたその中身は既に軍事行動を推し進める内容で、
板垣退助は、
「直ちに釜山へ出兵すべし!」
と強行主張している。
(しかも三井の件は削られてしまっている。)
しかし、それに対して西郷さんは、
「断じてそういう事はしてはならん。
どこまでも礼節を尽くし、
古式に則った格式のある烏帽子直垂で以って会見に臨み、
とことん話し合いを尽くす事が第一でごわす。」
(朝鮮王朝は強硬な外国攘夷論だったので、あえて洋装ではなく、
旧幕時代の最上級和礼装のほうが良いとしたのでは?)
、、、と何度も主張してされているのに、
何故かいつのまにか真逆の事になってしまっているのだ。
事実、西郷さんを太政官から放逐したあと、
政府は早々に実際に軍事行動を実行している。
歴史は一体なぜ、
こんな真反対の事になってしまっているんだろう?
やっちゃんはホントに納得がいかない。
ところがどうもこの頃の記録が乏しいようなのだ。
(隠蔽した形跡まである。)
意図的なものをどうしても感じてしまうのだ。
恐らく教科書でもそうなってるんだろうな、、、。
勝海舟もこの問題で後年、
「世俗が西郷の遺志を継ぐなどとは片腹いたくなる。
どこに西郷の遺志があるというのだ。
西郷の征韓論なんぞとは馬鹿のいう事よ。
(略)
周りが切るの討つのとはやし立て、
征韓征韓というて、
ついに世論を征韓論にしてしまい、
西郷の意思だと言うて、あたら金玉傑士の西郷を、
空しく城山の地下に埋めたとは泣いても泣き切れぬ。」
と書き残している。
さらに。
「それを今なお西郷が征韓論者などとは
日本の歴史がまるでウソになって帝国の前途が思いやられる。
真の武士道の活用を知らぬ子供らには困るよ。」
と、、、。
勝海舟は西郷さんが眠っておられる墓地、
南洲墓地にこのような歌碑を残している。
「ぬれぎぬを干そうともせず子供らが
なすがまにまに果てし君かな」
南洲墓地に存する勝海舟歌碑

ここで勝の言う「子供」とは私学校の若い士族たちでもあり、
真の武士道の活用を知らぬ
とは、歴史を知らぬ真の国家の尊厳を理解できない未熟者、
という意味だろう。
干そうともせず
とは一切弁明することもなく、という意味だ。
ぬれぎぬ
という言葉がズン、、、と胸に響く。
勝海舟がぬれぎぬと意味するのは征韓論者、だという事と、
西南戦争の首謀者(つまり政府と帝への反逆者)という事の
両方を指しているように思える、、、。
西郷さんは帝への反逆者だという汚名を
自分が一身で被ることを覚悟の上で、
一切の弁明も釈明も、
政府への具体的な糾弾もあるいは一切の恨み言も
何ひとつとして表してはいないし、なんびとにも話してもいないし、
書き残してもいない。
ただ一言、
「政府に尋問の筋之有。」と、、、。
だから勝海舟は西郷さんの代わりにせめて自分が、
「濡れ衣を干そうともせず」
と後世の人々に向けて
大声で言ってやりたかったのだ。
いつの世にもこのような「子供」らが存在している。
世論の煽りをまともに受けて何ひとつ間違っていなかった、と
都合よく歴史を修正し、
自分には大して中身も貢献した確かな実績も無いというのに、
国家の誇りだとか尊厳だとか愛国とやらをやたらと大声で叫び立て、
それが逆に国際世論を敵に回していることにも気づかず、
そのために自分で自国の国力を著しく貶めていることにも気づかず、
激発する人はいつの世にもいる。
今も大勢いる、、、。
国や国土や郷土への誇りも愛も、
人は誰でも心の奥底に本来持っていて当たり前。
それは血脈の中に営々と流れているものだ。
日本人なんだから。
本来の美しき姿だった、と思う。
それを異様なまでに声高に叫んだり、
身の丈以上にやたらと誇らしげに自慢したり、
愛国者気取りで口に出して言わない人を「売国」「反日」などと
口汚く他者を罵り排除する人はキライだ。
、、、またここで、荘内藩とは対照的に
悲惨な道をたどる事になってしまった会津藩のことにも
触れるべきだろう。
「会津の人々はさぞや西郷さんを
今でも恨んではるんやろうなあ、、、?」
とやっちゃんは考えてしまい、
まだあんまり深く勉強できていないのだ。
その辿った悲惨さを思うとつい心が萎えてしまう、、、。
会津や奥州越列藩同盟からすれば薩長こそが大逆賊であっただろう。
ひたすら恭順する徳川慶喜、ひいては主家徳川家そのものを、
無理くりに武力でもって打ち倒そうというのだから、
幕府ご親藩であった彼らにとって許しがたい反逆に違いない。
その首謀者である西郷隆盛たるや彼らから見れば、
島津久光が西郷さんを罵るところの大悪人 だったろうと思う。
元会津藩家老佐川官兵衛、同じく会津藩家老であった山川浩は、
明治政府軍として西南戦争に出征する際、
「薩摩人みよや東の丈夫が提げ佩く太刀の利きか鈍きか」
と歌っている。
また、会津藩出身で当時陸軍幼年学校生徒であった柴五郎は、
西南戦争での西郷隆盛の自決と、
その翌年の大久保利通の暗殺を合わせ、
「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと
断じて喜べり」 と記している。
だけど会津にとって憎い敵である薩摩士族は、
賊軍として西南戦争で徹底的に壊滅する。
その首魁西郷隆盛は全ての官位を剥奪され、
朝敵賊将として死を遂げた。
世俗的な意味としてだけでの会津の薩摩への復讐報復、
という意味でならば、それは完全に果たされただろう。
今は下記のことだけ書く。
さらにもっといろいろ勉強してから、、、。
会津人柴五郎氏の遺書が残っている。
彼は生き延びて後陸軍大将。
その遺書は涙なくして読めない。
柴五郎氏が晩年に書いた「血涙の辞」
「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、
むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり。
多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。
粗衣老體を包むにたり、草木余生を養うにあまる。
ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、
過ぎし日を想えば心安からず、
老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、
懊悩流涕やむことなし。
父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、
語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。
四季の風月雪花常のごとく訪れ、
多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、
非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて
余を招くがごとく、懐かしむがごとく、
また老衰孤独の余をあわれむがごとし。
時移りて薩長の狼藉者も、
いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。
恨みても甲斐なき繰言なれど、
ああ、いまは恨むにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、
心を悟道に託すること能わざるなり。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。
郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、
藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。
新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに
いかなることのありしか、
子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、
会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。
薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、
たまたま叔父の家に仮寓せる余は、
小刀を腰に帯び、戦火を逃れきたる難民の群れをかきわけつつ、
豪雨の中を走りて北御山の峠にいたれば、
鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、
城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
(略)
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、
着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、
伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、
草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて
生きながらえし辛酸の年月、
いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。
悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して
思慕の情やるかたなく、
この一文を献ずるは血を吐く思いなり、、、。
陸軍大将柴五郎

、、、思えば薩摩島津家もこの時の会津と同様に、
絶対絶命の危機に見舞われた事が過去2回あった。
島津が大友宗麟に勝利し、
ほぼ九州全土を手中にした後の秀吉の九州征伐。
さらに関が原後の家康の島津征伐。
特に始めは藩主義久は頭を丸め、
自ら秀吉本陣に赴き徹底恭順を示したが、
それだけでは許されず義久の弟歳久の切腹、
という犠牲を生んでいる。
この時の弟の死を悲しむ義久の歌が残されている。
歳久公を偲ぶお祭りが今も行われている。
(島津武勇四兄弟といわれる。義久、義弘、歳久、家久。)
2度目の時も関が原敵中突破で薩摩に逃げ戻った弟義弘を、
長兄義久はすばやく桜島に隠し、領内に総動員令を下し国境を固め、
徹底抗戦辞さずの姿勢を示しつつ、
一方で家康に何度も繰り返し使者を送り、
陳謝の意を示しつつ時間を稼ぎ、粘りに粘って家康との交渉に成功。
結局所領全土を安堵させてしまう。
義久の知略にとうとう島津を滅ばせなかった家康は、
薩摩と長州の脅威がいつか徳川幕府の存亡に関わる、
とこの時すでに読んでいて、
「自分の死後、頭は西国に向けて葬れ。」
と言い残している。
つまり徳川幕府270年間を通して、
仮想敵国は薩摩長州だったのだ。
その後も徳川治世において、
何度も薩摩はひどい目にあわされている。(木曽川治水工事とか)
幕府はよっぽど島津をつぶしたかったんだろう、と思う。
これら西国外様藩は幕閣において、
絶対に治世に関わることは許されない、
という状況が実に二百数十年間の長きにわたって、
延々と続いた果てにブチ切れて、
ついに倒幕運動が沸き起こった、という事になる。
さらに言えば、
公武合体とか尊皇攘夷 とかいうけれど、
幕末イデオロギーがどうの とかいうけれど。
実は最大の理由は経済問題だったんじゃあないだろうか?
つまりカネの切れ目が縁の切れ目、
という身もフタもない実態だ。
そう、キーワードは金。
(政治の闇を知るには金の流れを追うべし、
と堤未果氏が言ってる。)
特に薩摩長州藩はすでに貨幣による経済活動をしていたけれど、
(もっといえば海外貿易(密貿易)をしていたけれど)
多くの藩においては米中心経済で、まだそこまで到っていなかった。
(年貢を徴収して分配するのみ)
徳川幕府による貿易経済活動の独占は、
もはやこれ以上は断じて許しがたく、
なんとしてでも打破したい最重要問題だったのではないだろうか?
およそ参勤交代1つとってもこの遠さでは270年間もの間、
なんという難行苦行だったろうか、、、としみじみ思う。
やっちゃんは大阪-鹿児島間を何度か車で往復してても、
そのあまりの遠さに下関あたり(ここで大体半分)で、
もお~体がつらくってつらくって、
「もおイヤだ、、、おうちに帰りたい、、、(涙)。」
(帰るにしても、また同じ距離を走るしかないので、
ただひたすら前に進む他なし。)
って毎回目に涙が滲んでしまうほどだったのだ。
薩摩藩は幕府に対してほんまに忠節の気持ちなんかあったのか?
実は全然なかったんじゃあないのかなあ、、、?
徳川幕府270年間を通して、
リメンバー関が原 だったに違いないのだ。
西郷さんは若い頃に肘を重篤に負傷しており、
身体は巨大だけれど、
けして腕っぷしの強い人ではなかった。
坂本龍馬のような剣客でもなかった。
陸軍大将ではあったけれど、
天才ともいわれる大村益次郎や高杉晋作がごとく、
卓抜した軍事的才能がある人でもなかった。
つまり特別何か、人よりずば抜けた技能や学問があった、
という人物ではなかった、という事だ。
しかも身分はほんとに低かった。
だけど、薩摩藩における西郷さんの人望徳望というのは、
薩摩一藩を大きく動かすほどのものだった。
その大きさはただ単にリーダーシップ、というものの域を
はるかに越えるものだった、といえる。
島津久光は生涯西郷さんを嫌い、憎んだ、
という。
久光は薩摩藩実質君主(藩主の父)でありながら、
多くの薩摩士族たちの心服は西郷さんにあった。
(もちろん久光派という勢力も存在していた。)
本来藩主が持つはずの命令権や影響力を
その人気と人望によって全て奪ってしまった男。
西郷隆盛の行動を一切封じ、終身の島流しにはしたけれど、
(この時の久光の怒りはすさまじく、
大久保利通は西郷さんを道連れに切腹を図ったほどだった。)
西郷さんを望む藩論の高まりによって
結局ついに召還せずにおれなかった、、、。
藩内有志の嘆願により西郷さんを召還する際も、
悔しさの余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残した、
という逸話があるぐらいだ。
特に謎が多い、と言われる
維新後の西郷さんの行動を理解するためには、
この久光という陰の存在抜きには理解できないのだ。
西郷さんを批判する人の多くは、この久光と西郷さんの複雑な関係を
なおざりにしているため西郷さんの行動を誤解している人が
非常に多い、といえるのではないだろうか?
ちょうど木戸孝允がそうだったように、、、。
沖永良部で吹きさらしの牢に数ヶ月も入れられ、
ほとんど死にかけてガリガリにやせ衰えた西郷さん。
土持(つちもち)どんや島ん人たちに助けられなければ
確実にここで死んでた。
藩内での西郷さんの声望が高いので処刑するわけにもいかず、
久光はこのままここでジワジワと殺すつもりだったんだろうな。

沖永良部や奄美大島での西郷さんの足跡が、
西郷隆盛 という人物を知る上でなにより重要だと思える。
これらの離島での日々において、
西郷さんは人生における最も重大な変革を遂げておられるからだ。
沖永良部の土持どんという人は、
南国の最果ての小さな小さな離島の、
貧しくごく非役のお役人だったけれど、
彼の人格的香気は今も尚、はるかな時代を越えて、
深い感動と尊敬の思いをやっちゃん達多くの県民に与えてくれる。
土持どんだけじゃあない。
島の人々、島の子供たち。
西郷さんの命を救い、世話をし、その教えを請い、
その影響を受けて、その後多くが立派な働きをされている。
このような島の人々との出会いと、期間は短くとも深い交わりが、
西郷さんの生涯を通して、
敬天愛人
天を敬い民を愛する
の思想と行動を創り上げたのだ。
西郷さんはもちろん藩主でもなく、藩の重役でもなく、
天才的な何か技能の持ち主、とも言いがたく、
はるかに低い身分の出身であったに関わらず、
なぜそういう存在になりえたのか、、、?
西郷隆盛という人はよほど人間としての尺が巨きい人らしい。
薩摩人たちは西郷さんを指して言うとき、
しばしば大西郷という言い方をする。
古今東西、学者、歴史家、小説家、芸術家、、、
誰もがその西郷像をつかみ難く且つ表現しがたいらしく、
苦心惨憺されている様子が伺えてしまうことが多い。
人はそれぞれ自分の器や物差しで人を判断しがちで、
結局おのれの持つ度量や尺でしか計りようもないのだけれど、
そこに限界が生じてしまうのだけれど、
西郷さんという人は、
およそ余人には計りがたい情量や人格的光芒を持った人らしく、
西郷さんに直かに接した人の多くは、しばしば
「英雄 という言葉だけではとても表現できぬ。」
という人がいるので、
実際直接会ってもいない学者さんごときには
とうていつかみきれないのかもしれない。
司馬遼太郎氏は率直に、
「西郷とは何者なのであろう。
この稿によって筆者は垣根を過ぎてゆく西郷の影を
少しでも見たいと思っているが、
今、彼の片影を見て察するとすれば、
彼にはどうにもならない神聖なものがあった、という事である。」
と嘆息しているけれど、
もしくは多くの学者や評論家連中があれこれと評論しているけれど、
その多くが何故かやっちゃんには、
「西郷さんてほんとにかわいそう、、、。
あることないこと好き勝手な事ばっかり言われて、、、。」
っていう感情がつい沸いてしまうのは
ホントに何故なんだろう?
こんな気持ちにさせられてしまう歴史上人物って、
西郷さんだけやもんなあ、、、。
薩摩には郷中制度という薩摩藩独特の
いわば青少年団的な組織が地域ごとに存在した。
部屋住みの藩士の子弟は皆これに入り、
年長者が年少者の剣術、学問などの教育にあたる、
郷中教育というものが行われた。
年少者は教えられたことを自分が年長になると、
さらに下の者たちに指導する。
つまり必ず全員がインプットアウトプットさせられた。
人間、知識技能を学んで入れるだけではダメで、
次には全部出しきって初めて血となり肉となるからだ。
こうして徹底して薩摩武士としての教育、
質実剛健、死を恐れず勇敢であること、
を基本として少年時代から特別な訓練が行われた。
作家海音寺潮五郎氏は、
この郷中教育で行われた教育内容とほぼ同じものが
会津にもあった。
だから幕末、この二藩のみが戦国時代の気風、
サムライの強さを保持していた、と語っている。
西郷は若くしてこの郷中頭を務め続け、
普通18才で退くところを廻りから引き止められて、
郷中頭を24才まで務めた。
さらに薩摩には、
オセンシ(御先師)
というものが存在した。
オセンシ とはお上が決める役職ではなく、
郷の人々がおのずと推奨する存在で、
薩摩の郷中で発酵するように出来上がってゆく、
リーダー的存在らしいが、
そのオセンシの権限と命令は絶対、であったらしい。
「義を言うな。」
という言葉は今でも存在するが、
「オセンシに逆らうな。」
と言われた。
城下の各小地域に伝統的に存在した、
数多くのオセンシたちの頂点に立つ
大オセンシが、
西郷隆盛であった、といえる。
西郷さんが下野したとき、
明治政府軍の薩摩系近衛士官や軍人たちは、
ほとんど彼の後を追って鹿児島に帰ってしまった。
つまり、明治政府の重大な軍事力の大半が
西郷さんと共に薩摩に戻ってしまった。
薩摩士族は倒幕維新を行い、
明治新政府をつくった最大最強の軍事集団であったにも関わらず、
それが忽然と消えて西郷さんの後を追って、
薩摩大隅の山野の向こうに去ってしまったのだ。
当時の旧薩摩藩は独立国の様相を呈しており、
新政府のいうことなどほとんど聞いていなかったし、
この薩摩という国は、江戸徳川時代300年を通して、
「薩摩の二重鎖国」
と言われるほど、公儀隠密でさえ潜入を許さぬ という、
厳重な国境を曳いている藩だった。
薩摩藩に幕府の密偵が潜入して、
まず二度と無事に戻れた者はいない、という事で、
俗に薩摩飛脚とも言われ、依然その慣習を持ち続けていた。
この最強の薩摩軍事集団が大西郷の号令一下、
一体何をしでかすか、第2維新反乱を起こすのではないか。
国境の向こうは霧に包まれてほとんど情報がわからず、
新政府側にとってそれは恐怖に近い状態だった、、、
実はこの頃の西郷さんは、
鹿児島中を鉄砲を担いで猟師をして歩き回っていて、
ほとんど私宅にも戻らず、
数匹もの犬達と下僕だけを連れて何日も山野を歩き、
地元猟師の民家や山小屋や山奥の温泉湯治場などに泊まり、
温泉に入ったり、囲炉裏端で毎晩猟師たちと猟の話をしたり、
話に興じて猟師たちと大笑いしながら睾丸比べをしたり、
全く野人そのもの の暮らしをしていた、という。
上野の銅像はこの頃の姿 だといわれている。
この頃の湯治場や猟師の子孫の方などの逸話が沢山残っていて、
それらからも西郷さんの人柄がとてもよく偲ばれている。
この時、極力自宅にいなかったのにも理由があり、
全国の不平士族たちが、
西郷決起を求めてぞくぞくと西郷宅に訪れていた。
彼らにうかと会う訳にはいかない。
士族の反乱はそれほど一触即発に近い状況だった、といえる。
薩摩人にとって西郷さんの存在というのは、
リーダーという域をはるかに大きく越えており、
賢人仁者であり、仰ぎ見る巨星であり、同時に慈父でもあった。
彼らにとって西郷隆盛という名は異様なほどの電磁力を帯びており、
それは幕臣たちが徳川家康を東照大権現と崇め奉るのとは
全く意味が違う。
家康は彼らにとって主家でありご主君であるけれど、
主君に忠義忠節を尽くすのは武士たちにとって
当然だったろうけれど、
薩摩人にとって西郷さんは主君でもなんでもなく
身分もはるかに低い出身だった。
彼らの主君は島津久光だ。
ならば西郷さんは独裁者であったか、といえば
けしてそうとは思えないほど、
西郷さんの足跡業績には私欲権力欲、
というのが露ほどかけらも感じられない。
事実、暮らしや身の回りなど、
質素で粗末な人であったことは誰しもが認めるところ。
陸軍大将、参議、近衛都督 という文武の最高位にあった時も、
一書生のような質素すぎるほどの暮らしぶりで、
相変わらず雨漏りのする古家屋に住み、
高官たちはほとんど皆、馬車を乗り回してる中で、
従僕だけを連れて徒歩で太政官に通い(ダイエットもかねて)、
政府高官たちの豪奢な暮らしぶりや不正を激しく憎み、
「幕末、志半ばで死んでいった者達や
戊辰の戦いに散っていった多くの者達に合わす顔がごわはん。」
と涙を流し嘆いていたというのだ、、、。
学問や思想のみの口舌の徒ではないどころか、
現実の大変革を断行、
それを成し遂げた類まれなる指導者であると同時に、
激烈な革命家であったこともまた史実。
特に維新前、前代未聞の策謀を廻らしたり、
驚愕するほどの詳細な情報収集分析活動もしているし、
ただ、人徳清廉綺麗ごと のみの人ではなく、
確かに壮絶なまでの革命実行者、であった。
そのあたりも本当に摑みきるのがむずかしくて、
やはり実際にお会いするより他はないのでは、、、
とさえ思えてくるのもホントに不思議な歴史上の人物、だと思う。
そして何よりも前記事で書いたように、
貧しい民を慈しみ心を添わせ、
清心尽力する情愛の人
、、、という西郷さんの本質。
西郷さんと薩摩の貧しい農民たち、
あるいは奄美や沖永良部の島民たちとのエピソードを見ると、
西郷さんはとにかくほんとにやさしい。
病人や老人や貧しく弱い人々が困っているのを見ては、
とにかくほうっておけない。
相手が士族や軍隊ならば話はまた別だが、
弱い人々、貧しい人々に対する、
西郷さんのそのやさしさ、というのはほんとに
もお、哀しいぐらいにやさしいのだ。
西郷さんに仕えていたある人のこのような証言がある。
「私は13年間一緒に暮らしましたが、
一度も下男を叱る姿を見かけた事がありません。
ふとんの上げ下ろし、戸の開け閉て、その他、
身の回りの事はたいてい自分でされるのです。
でも他人が西郷さんの為にしようとするのを
遮る事もありませんでした。
まるで子供みたいに無頓着で無邪気でした。」
また西郷さんの義理の妹(妻イトの弟の嫁)、
この方はそうとう長生きされた方らしく、
お話しを聞いた実録テープが残っていて、
(実際のテープは薩摩弁で話しておられます。)
「食事に文句を言うのを聞いた事がありません。
毎回、おいしいおいしいと召し上がって、
イトさあに、今夜も良くできました、とおっしゃって、
イトさあは褒めすぎです、と二人で笑っておいででした。」
と、、、。
彼を慕う士族の若者たちに対してもそれは同様で、
愛情深すぎるぐらいの人物なのだ。
そしてこんなエピソードもある。
彼が島津久光を激怒させて徳之島に流罪になった時、
島のある老婆が、西郷さんの流罪の深い事情は何も知らずに、
これが2度目の流罪、だということだけを知って、
「何と心がけの改まらぬことか。」
と西郷さんを叱って説教した。
それに対して西郷さんは、
平身低頭、
涙を流さんばかりにして
その老婆にあやまったという、、、、。
う~ん、、、。
書けば書くほど不思議な魅力に満ちた人物、
だと思えてきた。
そもそも天皇陛下から、
当時、最も過酷で貧しい暮らしを強いられた
離島の島民にいたるまで、
階級というものを大きく超えて、
これほど幅広く愛された偉人というのはちょっと他に見当たらない。
こうして地元鹿児島に住んでいると、
さすがに多くの逸話に接することができるけれど、
そのほとんどが西郷さんが表舞台で活躍されている時の話ではなく、
むしろ不遇にあった時の逸話がほとんどである。
そしてそこにこそ、
今なお多くの県民が西郷さんを愛するのか、、、
というやっちゃんの問いの答えがある。
斉彬公に見出される前の下級役人であった時代の逸話、
あるいは島流しされていた時の島の人々との多くの逸話、
あるいは下野したのちの山野に寄居されていた時代、
あるいは原野を開墾されているとき、、、。
西郷さんと直かに会われていて、
昭和まで長生きされた方のお話や、
それらの子孫の方々のお話など、
実に多くの逸話が残っている。
それらが意味するのは、
いかに西郷さんが農民や猟師や島民や、
多くの貧しく弱い立場にある人々と、
そのほとんどの人生をともに存ったか、、、
を実感することができるのだ。
増田宋太郎という中津藩士が存在した。
彼は国学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。
福澤諭吉の再従弟に当たり、福澤の価値観に魅せられ、
その後慶應義塾へ入学。
慶應義塾で学んだのち、民権運動に開眼し、
中津帰郷後、英学を教える一方「田舎新聞」を創刊する。
維新後は攘夷思想を改め自由民権運動にも参加。
つまり彼は大変な知識人だ。
その増田が西郷さんと共に西南戦争に薩軍として従軍し、
中津隊を率いた。
そして和田峠の戦いで敗れた後、
西郷さんが解軍の令を出して故郷へ帰る隊もある中、
最後まで西郷さんに付き従った。
中津人たちは増田一人だけが薩軍にとどまり、
他に対しては故郷へ帰れ、というのは道理にあわぬ、
皆で中津を出てきたのだから皆で一緒に中津に帰るべきだ、
君だけが薩軍に残る、というのはわからない、と言った。
そこで増田は、
「自分は理屈の多い人間だが、
人の気持ちというのは理屈では必ずしもわからないものだ、
ということが今度、自分を見つめていて初めてわかった。
自分は諸君から選ばれて隊長になった。
隊長になると自然西郷という人格にしばしば接した。
諸君は幸いにも西郷を知らない。
自分だけがそれを知ったが、もはやどうにもならぬ。」
と言い、たちまちハラハラと涙を流した。
中津人たちは増田の様子の異常さに驚き、さらに訳を聞いた。
この時の増田の言葉が中津の人々に記憶されているという。
「吾此処に来り、
始めて親しく西郷先生に接することを得たり。
一日先生に接すれば一日の愛生ず。
三日先生に接すれば三日の愛生ず。
親愛日に加はり今は去るべくもあらず。
今はただ死生を共にせんのみ。」
、、、という言葉を増田宋太郎は残している。
最後は城山の戦いで戦死し、
現在は南洲墓地で西郷さんや桐野さんたちと共に
眠っている、、、。
西郷さんの本質はこういう事 なんだと思う。
後世の人間が、評論しても小説にしても、
なんとしてもその人間像に迫るのがむずかしいようで、
誰もが四苦八苦してるんだけれど、
実際に会ってしまうと、もうどうにもならない のかもしれない。
それは村田新八もまた同様で、
洋行してつぶさに近代欧米世界をよく知り理解し、
明治政府の高官になれるはずの身で全てを断り、
西郷さんの元へ走り従軍し、最後を共にする、、、。
アーネスト・サトウが西郷びいきだった、
という事はよく知られているけれど、
そのサトウの親友で元英国公使館医師の
ウイリアム・ウイルス(薩摩医学校主任)などは、
薩摩軍に従軍したい、とまで申し出たという。
西郷さんと深い縁で結ばれた英国医師のウイリアム・ウイリスが、
酪農の推進事業を行った吉野牧場は吉野開墾社と同じ吉野にあった。
ウイリアム・ウイリスは、
西郷隆盛の薦めで西洋の近代的な医学校を鹿児島でつくった人物。
彼は、日本人の健康と体力増進のために、
ミルクとバター、肉を摂取するために、酪農経営と羊の家畜経営を吉野台地で提案。
ウイリスは吉野牧に行って牧草地に適していることを調べている。
食生活ばかりではなく羊毛製品も考えていた。
吉野牧のあまり利用していない土地を新しい地域産業にしていくことを
地域の人々とともに考えていた。
ウイリスは緒方勇右衛門と野村権兵衛に依頼している。
すでにバターの試食を両氏の家でしている。
鹿児島の近代医療の発展はイギリス医療であった。
ウイリスは実際の生活を重視して健康と福祉の考えをもって持っていた。
アーネスト・サトウが西郷さんの風貌を指して、
「黒ダイヤのように大きな目玉をしているが、
しゃべる時の微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」
と表現している。
西郷さんを知れば知るほど、離れがたく、
愛が生じてしまう、、、。
、、、と西郷さんの事をここまで色々と書いてきて、
ウチのかっちゃんらが西郷さんを
今も昔も深く敬愛するのも無理ないなあ、、、と思えてきた。
彼の祖母は100才近くまで生きた人なんだけれど、
お母さんが今90才だから、
おばあちゃんはまさしく明治を生きた人。
かっちゃん幼い頃に祖父や祖母や古老たちは、
西郷さんや西南戦争の話を話して聞かせただろう。
最後の城山の攻防、政府軍の山県有朋は、
城山の周囲を蟻一匹這い出る隙もないほどに包囲した。
西郷方の薩軍372人に対して、政府軍は総勢なんと5万人。
日本戦史のなかでも、これほどの戦力差は珍しいという。
、、、今、西郷さんが静かに眠る南洲墓地には749基の墓石があり、
西南戦争で戦った西郷軍2023名が眠っている。
菊池寛氏がここを訪れて、
「西郷隆盛以下、薩軍の諸将の墓地が壮大である。」
と述べている。

西郷隆盛を中心に、
桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、
別府晋介、桂久武、永山弥一郎、小倉壮九郎ら勇将たち、、、
彼らの多くは下野するまで明治政府における、
近衛陸軍少将や大尉など将校だった人々あり、
薩摩において木気者(ぼっけもん)と呼ばれる人々だった。
木気者とは古来薩摩藩においては最大の褒め言葉であり、
「命知らずの男の中の男」というような意味だった。
質実剛健、勇猛果敢、豪放磊落、果断実行 、、、。
裏表がなく竹を割ったような性格行動の人を薩摩ではこう呼んだ。
現代人の目にはぼっけもんは粗野な乱暴者に映るかもしれない。
否定的な見方をする人のほうが多いかもしれない。
だけど、古来薩摩藩においては藩をあげて、
士族の子弟をぼっけもんに仕立てあげることに熱中したという。
司馬遼太郎の名作「翔ぶが如く」の元となる、
「なこよっかひっとべ!」
という言葉があるが、
「義を言うな!」
という言葉もある。
理屈を言うな、ということになるだろう。
むしろ学問はまあほどほどでよい、と。
とにかく議論するより颯爽とした勇気と行動を美徳とした
お国柄なのだ。
こういうあたり長州や、
同じ九州でも肥後や佐賀とはずいぶん違うなあ、、、と思う。
さらに、まことに薩摩武士らしい生涯を生きた県令大山綱良。
彼のいかにも立派な墓が建てられている、、、。
増田宋太郎さんのお墓もある。
他藩の方なので、少し西郷さんと離れてるのが
やっちゃんはちょっと可愛そうに感じたんだけど、
堂々と立派なお墓がある。
そしてわずか14才で最年少の伊地知末吉、池田孝太郎、児玉5人兄弟や
遠く西郷さんを慕って従軍した庄内藩の伴兼之、榊原政治、
福岡、大分、山梨などの各県出身者たちの名も見られる。
特に荘内藩の若いお二人の名前を見ると、
やっちゃんは胸に迫るものがこみ上げて来た、、、。
「田原坂(豪傑節)」
雨は降る降る人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかに美少年
これは西南戦争田原坂での壮烈な戦いを歌った民謡。
この「馬上ゆたかに美少年」とはモデルがあり、
村田新八の長男村田岩熊だといわれている。
写真に残る村田新八は、
英国紳士のような端正な顔立ちなのだから
さもあらん、、、。
激しい雨の中、
銀装の太刀を帯び黒光りの銃を腰にはさみ、
緋色のマントをひるがえし、
剣先を天に突き上げ猿叫一献(えんきょういっこん)、
薩摩示現流で骨をも打ち砕かんとする、
篠原国幹の姿が目に浮かぶようだ。
こういう篠原や桐野の爽快な豪傑ぶりが薩摩人たちは
大好きでたまらなかったという、、、。
桐野利秋、永山弥一郎らは西郷さんの右隣、
篠原国幹、村田新八、桂久武、別府晋介らは左隣、、、。
西郷さんを固く守っているようにも
西郷さんを中心にみんなで周りに寄り添っているように見える。
愛する人と共に戦い、共に死んで行く事が、
彼らにとって無上の幸せだったんだろうなあ、、、。
鹿児島市内ほとんどどこに居ても、
桜島の堂々たる威容を見る事ができる。
信州へ行った時にアルプスの標高の高い山々に圧倒されたけれど、
あれとはまた全く違う。
どっしりと巨大で男性的な存在感を感じる。
堂々と地球に根付いて絶えず火を噴き煙が立ち昇り、
悠然と四方ににらみを利かせ、
少しずつ表情を変えながらその変わらぬ圧倒的な存在感で、
人の営み暮らしを見守るように見下ろしている。
その姿には恐ろしさよりも、
何故だか不思議なことに、
雄々しい父のような逞しさを感じてしまうのは
やっちゃんだけではないようだ。
テレビの街角インタビューで若い女性たちが、
「今日も桜島はよかにせどん(いい男)です。
桜島を超える程のよかにせは鹿児島中探してもいないんです。」
って言ってて、
なるほどやっぱり西郷さんと桜島はよく似てる、、、
と改めて実感した。
西郷さんはその黒ダイヤのように大きな目で、
今の日本の世をどのように見つめ嘆いておられるのだろうか、、、?
そういえば現代のリーダー論に、
つまり人の上に立つ人の要素として、
知識やスキルの方ばかりが重要視されていて、
人としての気高さや清廉さがほとんど
重要視されてない気がする。
これは大久保利通も同様で、
彼の暗殺後調べたところ、
彼が自腹で明治政府に立て替えた金額は莫大で、
多額の借金が残っていて、
手元には20円しか残っていなかったという、、、。
前記事と繰り返しになるけど、
何度でも言いたいけど、
利権まみれの政治家たち、
耳の穴かっぽじって、
あんたらに良~く聞かせてやりたい。
書こうと思う。
やっちゃんは3年前、
かっちゃん母の介護をするために
鹿児島に残ろう、と決意した時に、
「郷に入っては郷に従え。
誰よりも鹿児島人らしい鹿児島人になっちゃる。」
とけなげにも考えた。
(甘かった。)
かっちゃん母の鹿児島弁を1人ひそかに練習して、
少しでもしゃべれるようにと努力したんだけど、
もう3年以上になるというのに結局大阪弁が全く抜けない。
「大阪のおばちゃんが他県の言葉でしゃべるのは、
犬にニャアと泣かすよりもしかして不可能か?」
、、、と最近ではもう、
ちょっとあきらめ気分になってる。
それでももっと鹿児島のことを知ろう、勉強しよう、
という気持ちは強かったので、、、。
鹿児島といえば西郷隆盛。
西郷隆盛といえば鹿児島。
ウチのかっちゃんがモロそういう人だった。
この傾向は都会に出た鹿児島県人会の人たちに
特に強い、と感じる。
かっちゃん手持ちの本を色々読んでみた。
彼はほとんど小説などの文芸書は読まない。
真剣に熟読するのは施工要領書、のみ。
唯一例外は郷土史と薩摩歴史書で、
特に西郷さん関連の本は何冊も読んでる。
幕末の話は大好きなんで、
今までもそれなりにあれこれ読んでたんだけど、
どちらかといえば坂本龍馬とか土方歳三フアンだったやっちゃん。
西郷さんのことはあんまり知らないことが多かった。
一番の謎は、
何故かっちゃんら鹿児島県人が
今もって西郷さんを深く敬愛するのか?
という一点。
それをひも解く最大の資料はやはり
「南洲翁遺訓」
だろう。
これは戊辰戦争における敗軍である荘内藩への
西郷さんの丁重かつ寛大な接し方に深く感動したという、
藩主酒井忠篤(さかいただずみ)以下荘内藩士ら76人が、
明治3年、なんと山形から遠くはるばる鹿児島まで訪れ、
しばしば西郷さんの教えを乞い、薩摩の人材教育を学び、
砲術や鉄砲や軍事調練訓練などをも受け、
その際に西郷さんから直々に学んだ数々の教えを詳細に記録し、
収録して著わし、本として出版したもの。
―であるらしい。
「命もいらず名もいらず、官位も金も要らぬ人は
始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、
艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり。」
これはその中の有名な一節。
そしてまた、やっちゃんが一番好きな一節でもある。
西郷さんは漢詩や手紙はたくさん残しているけれど、
著作、というものはないので、
西郷さんのお考えや哲学を知る上で、
現在に生きるやっちゃんたち鹿児島県人は、
この南洲翁遺訓を著し残して下さった荘内藩の方々に、
深い感謝の思いを抱かねばならない、と思う。
さらに。
荘内藩は西郷さんが下野した後も
二人の少年を選んで薩摩に留学させ、
彼らは陸軍少将篠原国幹の元に身を置き勉学していのたけれど、
とうとう西南戦争にまで従軍し、
西郷さんと共に戦死してしまうのだ。
「十年の役(西南戦争)起こるや従軍を篠原国幹に請う。
国幹、二人の年少なるを以って懇ろに諭し、
二人をして郷里に帰らさんと欲す。
二人がんぜずして曰く、
「吾、一身を西郷先生に託し其の恩を受くるや大なり。
而して今や、国家事あるに際し、
身を以って難に赴くは先生に報ゆる所以にて、
また国家に貢献する所為なり。」
固く請いて止まず。
国幹、其の決心を奪うべからざるを知り之を許す。」
と、、、。
年、わずか18才と20才だった。
現在、南洲墓地に西郷さんや篠原国幹らと共に眠っている。
この事実を知る人は、こんにちもはや荘内山形の人々の中にも
少ないのかもしれない、、、。
二人のうちの一人、
伴兼之の実兄秋保親兼が残している。
「とにかく西郷先生の偉大なる人格は、
幾百里を経つる我が荘内一藩を感化し、
数年前まで仇敵ただならざりし幾千の人士をして、
慈父のごとく敬慕せしむるに至った徳望は、
到底、所謂英雄豪傑の企て及び難いところである。」
ところがこの遺訓の出版は、
西郷と敵対した政府要人にとって好ましくないもので、
南洲翁遺訓出版の責任者であった赤沢源也は、
明治政府警視総監に呼びつけられ、
遺訓の内容を訂正してほしい、と言われ、
「一字一句でも手を入れられては、
西郷先生の精神を損なうから固くお断りする。」
と憤然として言い放った。
しかも。
旧藩主酒井忠篤公は遺訓が刊行されるやいなや、
遺訓を風呂敷に包んで旧藩士たちを全国各地に飛ばし、
彼らは文字通り風呂敷包みを背に背負って行脚し、
心ある人々に配布して回った、というのだ、、、。
そしてこの南洲翁遺訓は、
今なお版を重ね、多くの人に読まれ続けている。
過去においても多くの政治家や実業家や思想家、
あまた軍人や右翼らがこの遺訓を糧とし、あるいは利用した。
だけどその大方は、
西郷好きの西郷知らず、西郷好きの西郷気取り、、、。
ごくごく一部を除いて、
西郷さんとは似ても似つかぬ人がほとんどだった。
、、、とやっちゃんは思ってる。
荘内藩は戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と激戦。
秋田藩・新庄藩そして新政府軍本体による攻撃をも破り
連戦連勝したが、
周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、
ほぼ無敗のまま降伏し、開城して謹慎を命じられる。
新政府に反逆したとして改易に処せられ、
12万石に削減された上で存続を許された。
明治2年忠篤は罪を許され、明治3年には西郷さんを慕って、
藩士ら約80名と共に薩摩に留学することになる、、、。
西郷さんと西郷家に長年仕えた忠僕、
永田熊吉の証言が残っている。
「薩州人と荘内人とは旧怨を忘れて、
親友のようになりました。」
と、、、。
つい先ごろまで激戦を戦った旧敵同士が、
これはほとんど奇跡のようなできごとやなあ、、、と
やっちゃんはしみじみ感じてしまう。
薩摩は荘内に心底憎まれても当然だったにも係わらず。
荘内藩御藩主、藩士の方々、ならびに
荘内の人々の精神の高さに圧倒される逸話
だといえるだろう。
荘内藩と会津藩は共に幕末幕府方の雄藩であり、
共に薩長と激しく敵対しながら、
両藩のその後の運命は大きく違ってしまった。
そこには荘内藩の菅実秀(すげさねひで)という人物が存在する。
どうもこの人物がキーマンのようなのだ。
(戊辰戦争時軍事掛のち中老)
越後長岡藩の河合継之助のように有名ではないけれど、
菅に関してこのような一文を見つけた。
「、、、あえて言えば、
会津には菅実秀に匹敵するリーダーが存在しなかったのである。」
と、、、。
河合継之助は北越戦争で早々に戦死してしまっているし、
会津は幕末において京都守護職という難行を背負い、
新撰組をその傘下に抱え、反幕府勢力の憎しみを一手に買う、
という貧乏くじを引かされており、これは酷な言葉かもしれない。
河合継之助も生き延びてさえいれば菅に負けない働きを残したろう。
それにしても菅実秀の維新後及び直後の足跡は見事だった。
荘内藩の移封(国替え)を阻止し、
新政府に戦争責任者を差し出す段においても
藩主家老ら最高責任者は断固出さず、
すでに死亡している御重役の名を差し出し、
結局新政府側を納得させてしまった。
西南戦争勃発時にも沸騰する藩論を抑えきり、
「西郷先生は断じてそのような事は望んでおられぬ。」
と言って断固参戦同時決起させなかった事も
しかり、、、。
しかも藩主酒井忠篤公という方もまた
只者ではない。
選抜された藩士ら80人余りと共に薩摩に留学し、
一書生として西郷さんに師事し、誰よりも熱心に勉学に励み、
一兵卒として桐野利秋や篠原国幹ら大隊長の指揮によって、
鉄砲を担ぎ、皆と同じダンブクロを着て懸命に調練に励み、
藩士たちと寝食を共にし、
毎朝皆と一緒に自ら握り飯を握っていた、というのだ。
すでに時代は変わった、とはいえ、
その当時まだ廃藩置県は行われておらず、
しかも荘内藩は譜代大名の中でも有力な名門であり、
周りから「殿さま」と呼ばれる身がやはり只の人ではなく、
このような優れた殿さまだからこそ、
菅実秀は存分にその実力を発揮できたのだ、とも思える。
その辺に会津との運命を分かつ事情があるのかもしれない。
その後、酒井忠篤公は明治4年兵部省に出仕し陸軍少佐。
さらに兵学研究のため、
7年の長きに渡ってドイツ留学までされているそうだ。
帰国後は西郷さんなき政府に失望し辞官。
その晩年はバラ栽培なども楽しまれていたという、、、。
明治17年華族令によって伯爵。
荘内藩主酒井忠篤公
かなりシュッとしたイケメンなのでお写真ご紹介します~。

会津にも西郷頼母という優れたナンバー2が存在した。
だけど幕末においてその実力を発揮することは叶わず、
その一族は悲劇的な結末をたどり、
会津戦争敗北後、会津士族達の多くは
およそ人の住めない激寒の痩せ地下北半島末端に国替えさせられ、
飢餓地獄という過酷な運命に見舞われてしまう、、、。
会津藩にたいするこのような苛烈な処置の最大の首謀者は、
大村益次郎だった、いや山県有朋だった、いや木戸孝允だ、
とか諸説あるけれど、実際のところはどうなんだろう、、、。
大体優れたリーダーには、
卓抜したナンバー2が必ず存在するものだ。
いや、ナンバー2の底力をどれだけ存分に発揮させるか、が
優れたリーダーのあり方であるけれど、
人材発掘、人材育成、論功などをもひっくるめて、
それはむちゃくちゃ難しいものだ、といえる。
そこにこそ、ずば抜けた力を持つリーダーでなければ、
時代の荒波を越えることなどおよそ不可能だろう。
ましてや戦争とはおよそ
騙し合い、裏切り、陰謀謀略の果てに始まる、、、。
忠義も忠節も正義もクソもへったくれも無いのだ。
幕府方勝海舟の最大のライバル、とも言われる、
傑物小栗上野介さえもこの菅という人物を高く評価し、
早くから菅の実力を見抜いているのだけれど、
そもそも小栗は菅に西郷暗殺を命じてさえいるのだ。
暗殺は未遂に終わっているけれど、
この裏で幕府倒幕を狙った薩摩藩による大謀略活動があり、
それらが結局荘内藩による薩摩藩邸襲撃事件につながり、
ひいては戊辰戦争を引き起こすきっかけとなる。
戊辰戦争の混乱の中、
徳川慶喜が京都から大阪城に退いて滞在していたころ、
会津、桑名の兵士が大集結して騒然となり、
幕府方戦力の優勢が叫ばれていた。
(以下は藤沢周平の小説から。)
しかし菅は、
「その見方は甘い。
こういう非常時には戦力の多さなど決して頼みにならない。
俊傑一人の存在が頼みになる。
ところが関東方(幕府方)京都方(薩長土など)の動きをみると、
いつも関東方が京都方に機先を制せられている。
これは京都方に何藩の誰とは解らないが、
よほどすぐれた人物がいるに違いない。」
菅がその気配を察知した人物こそ
西郷隆盛そのひとであった、、、。
菅実秀は明治3年のみならず、
西郷さんが下野した後も再び遠く鹿児島まで西郷さんに会うため、
はるばる訪れているという。
、、、荘内藩の実質家老職に匹敵する実力者であった菅実秀は、
何よりも荘内藩の藩主や士族や多くの領民たちの
今後の行く末安寧をとにかくまず第一に考え、
英断実行した卓抜したリーダーであったと思う。
その人となりが自然西郷さんへと導いたのか、
遠くはるばる薩摩への留学、徳の交わり、遺訓の刊行流布、
へと繋がってゆくのである、、、。
山形県酒田市にも存する南洲神社
立派な像があるのにビックリ。
写真はワシモさんのHPよりお借りしています。
ありがとうございます。
菅実秀

西郷と対話する菅実秀

徳の交わり

旧藩中老・菅実秀は旧荘内藩士の先行きを考え、
養蚕によって日本の近代化を進め、
荘内の再建を行うべく開墾事業に着手、
明治5年、旧藩士3000人が荒野を開墾開拓し、
明治7年には 311ヘクタールに及ぶ桑園が完成した。
明治8~10年には大蚕室十棟が建設され
その後鶴岡に製糸工場と絹織物工場が創設された。
戊辰戦争の戦後処理で厚遇を受け、
以来親交していた西郷隆盛に相談し激励を受けたという。
、、、とここまで書いてきてやっちゃんは、
ハタ、と思いつく事があった。
やっちゃんちのある鹿児島県吉田地区に、
西郷さんの下野後、
上記の荘内藩と同じように、
桐野利秋ら私学校士族たちが開墾した、
広大な開墾跡地が残っているのだ。
さらに。
桐野利秋の開いた開墾地とはまた別に明治8年、
西郷さんはこの地に吉野開墾社を設立。
県令(知事)大山綱良から土地の払い下げを請け、
私学校生徒らと共に開墾事業を始めている。
西郷さんも武村の自邸からせっせと開墾地に通い、
生徒たちと共に鍬を振るっただけでなく、市街地から肥を集めて、
自ら馬に肥を乗せて何度も開墾地に運んでいるのだ。
西郷さんはどうも馬の扱いがかなりヘタだったらしく、、、
肥をひっくり返したりしたこともあったみたいなんだよね。
こういうとこも愛されるんだろうなあ、、、。
開墾社から西郷さんが大山巌(従兄弟同士 明治政府側)に
何度か送った手紙には、
「おからの汁に芋飯 食い馴れ候」
などと書かれており、
私学校生徒達と共に汗を流して開墾事業にいそしみ、
充実した日々を送る西郷さんが活き活きと手紙に綴られているのだ。
昼は農業、夜は学問に励むこの学校は、
40ヘクタールという広大な土地を開墾し、
開墾事業は軌道に乗ったか に見えた。
だけど、、、
時代の嵐はそういう西郷さんの願いを許さなかった。
西郷さんの意志に反して、
明治10年、西南戦争へと雪崩れ込んでしまうのだ、、、。
自ら農夫となって元士族たちの将来を開こうとした西郷さんの夢も
この西南戦争の勃発と共に費えてしまった、、、。
私学校は主に軍事訓練をしていた、というけれど。
私学校は軍事集団だった、というけれど。
それを恐れた明治政府側は
薩摩内の武器庫の武器を勝手に密かに運び出したり、
政府側密偵を潜入させたり、
西郷暗殺事件などがついに私学校生徒らの怒りを爆発させ、
結局薩摩は西南戦争に雪崩れ込んでしまうのだけれど。
だけど西郷さんは私学校士族らに農政を奨励して、
農業生産をもっともっと挙げて薩摩の農業立国を望んでいた。
でなければ、相当の強い志なくしてあれほど広大な土地を、
苦労して開墾など到底できるはずもなし。
当時重機など何もなく、広大な荒地を人力で開墾するなど、
まさに至難の難事業だったに違いないのだ。
だったら彼らが目指していたのは全く王道だと思う。
国を富ませて民を養い兵を強くする。
ほんとに正しいじゃん。
ついでに言うと、
西郷さんは私学校(最盛期は本校の他136の分校があった)や、
最も力を入れた吉野開墾社だけでなく、
英国人医学者ウイリアム・ウイルスを招聘して鹿児島医学校、
砲隊学校(砲兵技術)、
さらに賞典学校(洋学、語学)なども創設してる。
西南戦争当時、薩軍の戦死者の周りに、
英語や仏語の単語帳が散乱していた。
それは戦闘の合間にも語学を学ぼうとしていた、
この賞典学校の生徒達だった、と言われている。
歴史にもしも、は許されないにしても、、、
もしもあの時何事も起こらなければ、、、
これらの多くの生徒達の中から優れた人材が、
明治の世に、あるいは世界に向けて、
どれほど巣立っていったことだろう、、、。
島津斉彬が存命だったならば、
農政振興とともに近代産業をさらに推進して、
薩摩産業革命を起こしていっただろうけれど、
斉彬はすでに早世し、超保守派外国制文物全部大っ嫌い、
の島津久光の下ではそれはさすがに無理―だったに違いない。
さらに。
日本初代の陸軍少将であった桐野利秋。
彼が開いた吉田郷宇都谷(うどんだに)の開墾跡地は、
やっちゃんがいつも行く古い小さな温泉への途中にあるので、
何度もここに立ち寄った事があるのだけれど、
彼の生家のすぐ近くでもあるらしい。
市街地からはだいぶ離れていて、
当時は原野としてほとんど打ち捨てられていた土地だった。
彼の育った家は言語に絶するほどの貧しさだった。
その貧しさの中で想像を超える努力で薩摩示現流の超達人となり、
その強さというのはほとんど魔物のようで、
新撰組局長近藤勇が「桐野だけは避けろ」と言うほどだった。
陸軍少将であり、
また(小説の影響で)人斬り半次郎の異名が有名なんだけれど、、、
やっちゃんはいつもこの広大な開墾跡地に立つと、
彼の本質が見えてくるような気がするのだ。
彼の本質は、いわゆる世の人のイメージ、
剣の達人、豪放磊落、典型的な薩摩隼人、荒々しいぼっけもん、、、
であると同時に、その本質は郷土を愛し、大地を愛し、
ひたすら西郷さんを慕う純朴清廉な青年だったのでは、と、、、。
彼の残した日記を読むと暗殺者などというイメージは、
小説の中だけで創られた大きな間違いだとすぐわかるし、
(たしかに西南戦争でも戊辰戦争でも幕末でも、
人は沢山殺傷しただろうけれど、
桐野が暗殺目的で人を殺傷したのは唯一度だけ、
しかも藩の命令でやむを得ずだった。)
むしろ繊細なまでの内面すらが感じられてしまうのだ。
逞しく長身の桐野が全身を汗に濡れそぼち、
血のように赤々と燃える夕日に染まって一人黙々と、
あの広大な荒地を開墾する姿が目に見えるようだ、、、。
薩摩藩の士族は何故か、
当時の平均的日本人よりかなり背が高い人が多くて、
その理由はコメはあまり食べれなくても、
戦国時代からずっとイノシシや豚は良く食べていたからだ、
という説がある。
薩摩藩は昔から獣を食べるのに全然抵抗がなかったんだろうな。
日本人男性平均が大体155cmで、
桐野さんも大久保さんや村田新八や別府晋介や、
その他も180近くやそれ以上ある人が多い。
薩摩藩が集団で歩くと、
その背丈の大きさから異様な威圧感を放っていたらしい。
当時、薩摩藩の集団が歩いていると新撰組は、
「右に曲がるぞ!!」
と避ける事も多かったという。
桐野利秋 陸軍少将
彼もかなり爽やか系イケメン~。
やっぱり人気あるみたいで、
お墓は西郷さんに次いでお花の数が多いんだよ。
おしゃれな人だったからオーデコロンもお供えしてあった。

海音寺潮五郎氏は明治34年のお生まれで
鹿児島の方なので、父や祖父先輩諸氏から
西郷さんや桐野さんの逸話を直かに色々聞かれてるんだけど、
その先輩から聞いた話に、昔柳橋に出ていた名妓の人が、
「あの当時一番印象に残ってるのはダントツ桐野さん。
私は生まれてから今まで、
桐野さんほど男らしい男の人を見た事がありません。
男の中の男というのは桐野さんの事をいうのだと思います。
あの当時、東京中の芸子は一人残らず、
桐野さんに岡惚れしていました。」
なんだって~。
うん、わかるわかる。
実はやっちゃんもかなり好き、、、。
西南戦争の戦犯を桐野一人に押し付ける説があるけれど、
それは絶対に違う。
当時、全国に充満する不平士族の存在、という社会背景。
それは行き場も食い扶持も特権も、
拠り所とする武士の誇りも何もかも全てを失った、
空前絶後の全国規模の大リストラ集団の存在だ。
薩摩士族たちもそれは同様で、
なんとしてでも彼らの行く末が成り立つように、と
西郷さんは考えたに違いないのだ。
同時に打ち砕かれた薩摩士族たちの矜持を
少しでも取り戻してやりたい、とも考えたに違いない。
あのまま何事も起こりさえしなければ、
彼らは少しずつ時代に順応して、時代に呼応して、
各々が生きる道を模索して、
新時代と郷土に若い力を発揮し花開く時が来たに違いないのだ。
西郷さん という偉大な指導者の元に、、、。
当時、実際に起こってしまった士族の反乱を考えると、
薩摩士族たちの暴発も一触即発の状態だった。
導火線に火を点じさえすれば一気に燃え上がってしまう状態。
さらにいえば、
西郷さんは周りからの暴発誘導に乗ったりする人ではない。
また反乱を起こす考えなど露ほども無かった、という事実は、
当時の西郷さんの行動が全てを示している。
それ以前に実際に反乱を起こした首謀者たちは、
起こす前に頻繁に会合開いたり、
しょちゅう人と会ったり檄文書いたりしているけれど、
西郷さんはその真反対。
絶対にうかと決起を望む他藩人らと会わないように、
薩摩士族ともあまり会わないようにあえてほとんど自宅にも居らず、
家人ですら西郷さんが今日はどこの御山で狩をしてるのかわからず、
独り黙々と山野で猟をするか、
あるいは開墾地で鍬を振るうかしているのだ。
ちょっとした言動すらも決起の材料にする激発する輩は大勢いた。
そんな連中とは会わないのが最良だろう。
むしろ桐野は西郷さんのお考えに忠実に、
自分自身も私学校士族たちにも、かなりそれを抑えていた、と思う。
でなければあれほどの難事業である開拓を苦労してやりはしない。
吉野開墾社においても桐野は私学校士族らに
開墾指導をしているのだ。
それに意図的に巧妙に、
導火線に火をつけたのはむしろ明治政府側だろう。
佐賀の乱の時の大久保利通の残忍で巧妙なやりかたを見たら、
意図的に暴発させたのはまず間違いない。
(だから大久保は嫌われる。江藤新平かわいそすぎるやろ、、、。)
しかも予想される薩摩士族の反乱は、
明治政府にとって最大の脅威であり、
なんとしても薩摩士族そのものを
徹底的に壊滅させてしまわなければならない。
一旦大爆発を起こしてしまった巨大集団を抑えることは、
西郷さんといえどももはや不可能だった、、、。
例えれば、それはあたかも足元から
火山が噴火するようなものではないだろうか?
桜島は常時小噴火してるので、
御山から白い煙が出てない時の方が珍しい。
ところが数年に数回3000M級の、
さらに数百年に一度10.000M級の大爆発を起こす。
それと同じだ。
人知では如何ともしようがない。
だけど彼らだけを死地に行かせることなどできない人だった、、、。
「おいのこん身体、おはんらに差し上げもんそ。」
という言葉が全てを表している、、、。
ある作家さんが西郷さんの本質を指して、
「悲しみの共感力。」
という言葉で言い表していたけれど、
それはまさしく言いえて妙 だとやっちゃんも思う。
敗者に対して、弱きものに対して、
あるいは貧しきもの達に対する西郷さんの共感力、
というのはあまりにも巨きすぎた。
もはやすでに反乱を暴発させてしまった私学校の、
今まで自分をひたすら慕ってくれた多くの若者たちを、
見捨てて彼らを新政府に差し出す、
などということは絶対にできない人だったろう。
彼らと共に死んでいく
ということが西郷さん、という人なのだ。
維新後の、特に西南戦争時の西郷さんの行動には
謎が多い、とは良く言われることだけれど、、、。
(つまり戦争のやり方がヘタクソすぎたりするから。
というか、西郷さんがほとんど指揮系統に関わっていないから。
桐野始め大隊長らがほとんど作戦指揮していた。
西郷さんは終わり近くになるまでほとんど口出ししていない。
というより、終盤の全軍解散命令が唯一の命令だったかも。
だけど西南戦争勃発直前までの行動は謎でもなんでもない。
西郷さんの行動も考えも終始一貫している。
なんでみんな謎だっていうんだろう、、、?)
、、、以下は前記事に書いた内容だけど、再度書かせて下さい。
「おいのこん身体、おはんたちに差し上げもんそ。」
若い士族たちにそのように告げ、
自らが自刃することによって、
意図的に全てを終息させようとした。
つまり全国の武士の象徴たる自身を自ら抹殺した。
それによって今後、
大久保ら優れた政治家たちの手によって引き継がれ、
列強に対抗できうる近代日本への
真の夜明けが成される事を彼は渇望していたはずだ。
大久保らが欧州視察で留守の間に実行した政策見てもそれは明らか。
そのためにこそ人生をかけて維新を成し遂げてきたからだ。
またその為にこそ、
あまりにも多くの同志や人々を非業の最期に死なせてきたからだ。
事実これ以降、士族の反乱は一切起こっていない。
大西郷の死によって全国の士族たちは
「終わった。」
、、、と腹の底から認識したに違いない。
ここに武士の世の中は完全に終わりを告げた、、、。
西郷隆盛という人は自ら始めた維新への道を、
さらに自ら完結させた。
、、、というやっちゃん史観なの。
さらに。
ここで西郷さんのお心の内に分け入ってみよう。
(英雄たちの選択 の口調で、、、)
「短い間でごわしたが、おいが心を込めてお仕えし、
お育てもうした明治天皇に反逆する気は露ほどもござりもはん。
確かに、おいも含めて多くの人が、
現政権に対して不満に思う事は多々あれども、
陛下の御世がどうか栄えあれ
と祈る気持ちになんの変わりはござりもはん。
おいの身体はおはんらに差し上げることはでき申す。
しかし、陛下への衷心、
こん心は誰にも差し上げることはできもはん 、、、。
、、、だからおいには一切戦闘指揮は執れもはんが、
一切の責任はこんおいが全て取り申す。
おはんらと共に死に申そう。」
、、、ってやっちゃんは想像するんだけど。
矛盾といえば大いなる矛盾を抱えた
西郷さんの苦難の人生生き方を想う時、
やっちゃんはいつも、
あまりにも西郷さんがかわいそうでお気の毒で
たまらなくなってしまうのだ、、、。
(あ、、、また泣けてきた、、、(涙)。)
だから戦争前も戦争中も戦争終結直前も、
具体的な政府批判も檄文も時世の句も、
一切何一つ西郷さんは何にも残していないんだよね。
(この矛盾をなんと表現しようもないよね。)
しいていえばただ一言、
「政府に尋問の筋之有。」
とだけ、、、。
実際に反乱起こして政府ひっくり返して、
勝つ気満々だったら普通こんな書き方しないと思うよ。
反乱決起した時に良くみかける檄文などとは全く違ってる。
西郷さん亡き後の明治天皇の、
西郷さんへのお気持ちやお言葉行動、
などを考え合わせると、こう推測せざるをえないんだよね。
(ほとんど毎晩のように周囲の人に、
西郷さんの思い出話をされたりしていた。)
西郷隆盛が自ら鍬をとり、
若い士族たちに指導した南洲翁開墾跡地。
この近くにやっちゃんちがあるんだよ~。
実はこの石碑はものすごく巨大で、
初めて見たときはこの大きさにびっくりした。
ちなみに書はアドミラル東郷、つまり東郷平八郎の手によるもの。

南洲翁開墾跡地の石碑の横に、
島津斉彬公の集成館事業のひとつの寺山炭窯跡がある。
下の写真がそれ。
残念ながら薩摩では石炭を産しないので、
ここで良質で固い備長炭のような炭を製造し、
それを反射炉で燃焼させ、1500℃の高温で熔鉄し、
鉄製の大砲や砲弾を自家製造した。同じような窯が3基あったらしい。

アドミラル・東郷( Admiral Togo 東郷提督)
すなわち海軍大将東郷平八郎について
日露戦争でロシアバルチック艦隊を殲滅したことで知られ、
今も各国の海軍が崇拝し、東洋のネルソンと呼ばれている。
西郷さんと同じ郷中(町内)で育った。
薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では藩の海軍隊士として
阿波沖海戦、宮古湾海戦に参戦。
維新後は西郷さんの薦めでイギリスへ留学し、海軍の基礎を学んだ。
西南戦争の時は留学中だったが、
もし日本に居れば、西郷さんと共に戦った、と語っている、、、。
世界的に人気があり、
英国のネルソン、米国のジョーンズと共に世界三大提督と称され、
アドミラル・トーゴーとも称される。
昭和9年に没し国葬で多磨霊園に葬られたが、
郷土鹿児島で起きた薩英戦争の激戦地を見下ろす地にも
遺髪が埋葬され、お墓と銅像が建てられた。
今も鹿児島に海外の軍艦が寄港した折には、
多くの海軍艦長や乗組員らが墓地を訪れている。

西南戦争の凄絶と悲惨さはあまり全国的に知られていない。
例えば、怪我人を収容していた野戦病院での
負傷者達への政府軍による虐殺行為や、
薩軍兵士遺体への蹂躙は言語に絶する惨いものだった。
戦争があるところ、
必ずこのような略奪、虐殺、暴行が繰り広げられる。
昔も今も全く同じだ。
今も地球のどこかでこういう虐殺暴行が
現に行われている。
、、、戦争とは、、、なんとむごいものなのだろう、、、。
明日は我が身かもしれない恐怖を感じる、、、。
ともあれ、これだけの悲惨な戦争を引き起こし、
多大な死傷者を出した全ての責任は西郷さんに帰せられる。
だからこそ、一言の弁明もせずに粛々として死に望まれたのだ。
西郷さんにとって最大のご主君は
「三百諸侯に並びなき英傑」
と英邁を謳われた名君島津斉彬公だった。
江戸時代、世間から驚嘆を込めて、
「薩摩に暗君なし。」
と言われるほど、
特に戦国時代、島津家中興の祖といわれる
島津忠良(日新斎じっしんさい)が出てから後、
薩摩藩には暗愚の主君が出ず、
綺羅星のごとく名君を輩出した中で、
わけても不世出の名主が斉彬公だった。
斉彬公のことを書くには記事をあと2記事ぐらい書かないと
とてもじゃないけど書ききれないけれど、
西郷さんにとって斉彬公は最大の師であり、大恩人でもあり、
神にも等しい存在だった。
急逝されたこのご主君の名を口にするだけで
慟哭したいほどの篤く深い忠誠と敬愛を終生持ち続けた。
斉彬公が越前松平春嶽に送った書状に、
「私、家臣多くあれど間に合う者少なし。
なれど西郷一人は薩摩の大宝なり。
しかしながら、かの者悍馬なれば、
彼を使いきれる者は私でなくては無理であろう。」
と書いている、、、。
およそ万を超える薩摩家臣団の中から、
下っ端のまだ下の下のお役にいた
まだ若き西郷さんを見出したのもすごい、と思うけれど、
この二人の主従を越えた結びつきについてはまた別の記事に
じっくり書きたい、と思う、、、。
、、、次に西郷さんの最大の理解者であり無二の友でもあった、
勝海舟について書く。
これも考えて見れば普通ありえない話。
もともと二人は敵同士なんだものなあ、、、。
坂本竜馬は初めて西郷さんと出会った直後、
「西郷という奴、わからぬ奴だ。
小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう。」
勝海舟の紹介で西郷さんに会った坂本竜馬は
このように感想を漏らしている。
これに対して勝は、
「坂本もなかなか鑑識のある奴だ。」
と坂本の人を見る目の確かさをほめている。
(総じて薩摩の武士は無口だったので、
初対面の人にはボ~っとした印象を与えたんじゃあ
ないのかなあ、、、?
アーネスト・サトウも初対面そんな印象を書き残してる。
そのくせ鹿児島は結構ユーモアが好きでうまくて、
大阪の爆笑ボケツッコミ とはまた全然違う、
ちょっとひねった冗談がうまいなあ、、、と思う。)
さらに江戸城無血開城に貢献した勝海舟によれば、
坂本竜馬が西郷に及ぶことができないのは
「その大胆識と大誠意」
であるとしている。
勝と西郷が国運を賭けて相対したのは明治元年3月。
歴史的には薩摩藩邸での会見で全てが決まった とされているが、
その前後に討幕軍の本陣が置かれた池上本門寺内の奥庭、
松濤園の四阿(あずまや)での話し合いが数回あった。
(そりゃたった1回で決まるないような内容じゃあないもんな。)
事前の山岡鉄舟による尽力も大きく、江戸城の無血開城が決まった。
これによって江戸の町は戦火を免れた。
勝海舟の記した氷川清話によれば、
西郷は勝のいう事をいちいち信用し、
その間1点の疑問も差し挟まず、
江戸城明渡し、新政府軍の進撃中止などの勝の申し出を、
何も条件を付けずに飲んだ。
「いろいろむつかしい議論もありましょうが、
私が一身にかけてお引き受けいたします。」
勝は西郷さんの大胆識と大誠意に驚愕する。
血気にはやる新政府軍が江戸を目指して進軍中で、
一方幕府側は優勢な海軍力で新政府軍を粉砕しようと
意気込んでる状況だった。
二人の談判が始まる前から次の間には、
桐野利秋らの豪傑連中が多数、
息をこらして様子をうかがっていたらしい。
「薩摩屋敷の近傍には官軍の兵隊たちが
多数ひしひしと詰め掛けていて、
そのありさまは実に殺気陰々として物凄いほどだった。」
と。
そんな殺気立った状況の中で西郷さんはその言葉通り、
新政府軍を見事に一つにまとめてしまう。
勝はさらに言う。
「西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人民)も、
その生命と財産とを保つことができ、
また徳川もその滅亡を免れたのだ。」
と、、、。
もう一つ勝を感嘆させたのは西郷の態度だった。
「西郷が俺に対して幕府の重臣たるだけの礼を失わず、
談判の時にも始終座を正して手を膝の上に載せ、
少しも戦勝の威光でもって、
敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった。
その胆量の大きい事はいわゆる天空海闊で、
見識ぶるなどという事はもとより少しもなかった。」
と記している。
勝海舟は新政府軍の進撃を防ぐ為に、
新門辰五郎(しんもんたつごろう)ら火消しの頭や
任侠の親分などに江戸市中を焼き払う事を事前に頼んでいた。
と同時に房総沖にありったけの船を集めておいて、
逃げ遅れた難民を救出する手はずも整えていた。
もしもこの時、双方が決裂していたら、
江戸城はもちろん江戸の町は焼け野原になってしまい、
新政府太政官を江戸に置く事は物理的に不可能であり、
日本の首都は大阪になっていたんじゃあないだろうか、、、?
西郷さんが下野する原因となった征韓論にも少し触れておきたい。
これに関しては地元鹿児島県民でさえ多くの人が
誤解しているようなのだ。
ウチのかっちゃんですらそうなのだ。
数年前、
韓国前大統領が欧米あちこちで日本の悪口言いまくってて、
特に嫌韓意識が沸騰してた頃、
ウチのかっちゃんも同じく前大統領の反日政策に腹を立てていて、
「やっぱり西郷さんは偉かった。
朝鮮討つべしってゆうてはったんやからな。」
と言い出してやっちゃんは驚いてしまったのだ。
また別の機会で、とある県民のおいちゃんが、
「西郷さんはもちろん大好きなんだけど、
征韓論だけは西郷さんらしくなくて、
私は受け入れられないんですよね。」
って言い出す始末。
これでは西郷さんがあまりに可哀想だ。
第一、西郷さんご自身は一度も征韓とは言っておられないのだ。
あくまでも遣韓、交渉、外交、なのだ。
当時、ロシアの脅威が目の前にせまっていた。
朝鮮と日本と清国とで共同団結して対ロシア戦線を張らなければ、
東アジアは全てロシアに蹂躙されてしまうだろう、
という構想を抱えていた。
(これはもともと、島津斉彬、勝海舟構想だった、
という説がある。)
当時、欧米は日清同盟が成立するだろう、
と想定していたので、
この構想が荒唐無稽で絶対に実現不可能だった、
とは断言できない。
西郷さんは用意周到に事前に、
清国と朝鮮に密使を派遣している。
その際に清国の武人であり政治家でもある、
左宗党(さそうとう)という人物と折衝を重ねていて、
その内容を詳細に語る後年の彼の談話が残っており、
驚くべきことに、
先の対露防衛を目的とする日清韓三国同盟戦略構想の詳細が、
彼の口から事細かに語られているのだ。
当時清国も対ロシア脅威を抱えており、
左宗党氏は後年、
「自分は西郷の提議を大いに壮とし、
極力これに協賛すべく密約した。」
と語り、
「ところが惜しいかな日本は西郷を容れることなく、
その壮図を空しくさせ、しかも西郷を殺してしまった。
その損耗は、我が国(清国)における、
アヘンの害を蒙るどころではなくはるかに大きいだろう。」
とまで語っているのだ。
歴史にもしもは許されないけれど、
この時の西郷遣韓使節論が全くの暴論 ではなかった、
ということだけは言えるんじゃあないだろうか?
もしもこれが実現していたら、
果たしてアジアの歴史はどうなっていただろう、、、?
さらに。
万が一、外交交渉が不首尾に終わった場合に備えての、
戦争準備をしておく事さえも、
相手に対して非礼だからそれは絶対してはならぬ、
とまで訴えておられるのだ。
この問題が政府で沸騰していたその真っ只中に、
西郷さんが太政大臣にあてた建白書と、
公式かつ最終的な見解を示す始末書などが残っていて、
それを詳細に検証しても、すぐにわかる話なのだ。
ああ、、、それなのに。
一体何故、こんな事になってしまっているのか?
一体なぜ、西郷隆盛イコールゴリゴリの征韓論者!
西郷は武力を以って朝鮮打つべし! と強主張し、
それによって全国旧士族のはけ口とする、
などと暴論を繰り広げたあげく、
木戸や大久保、岩倉らの内政優先論に阻まれ政府を去った。
、、、などどいう事になってしまっているのか?
なぜ西郷さんの主張が全く正確に伝わっていないのか?
元々、木戸や岩倉や大久保の方がゴリゴリの征韓論者であり、
維新後早々の明治元年からその前提で対朝鮮外交を繰り広げ、
全く進展を見ないばかりか拗れにこじれてしまっており、
結局明治5年、軍艦で乗り込んでいって、
強引に釜山の草梁倭館(そうりょうわかん)を
強行接収(のっとり)、
朝鮮側に無断で外務省管轄としただけでなく、
名も勝手に大日本公館と変えてしまう。
(草梁倭館は朝鮮王朝から単に貸与されていた施設)
それだけではない。
あげくに三井組が勝手に貿易活動を行い、
ついに朝鮮側を激怒させた。
明治元年から延々続いたこれらの拗れた状況から、
政府に報告された内容は過激そのもの、
ついに明治6年、
閣議に乗せられたその中身は既に軍事行動を推し進める内容で、
板垣退助は、
「直ちに釜山へ出兵すべし!」
と強行主張している。
(しかも三井の件は削られてしまっている。)
しかし、それに対して西郷さんは、
「断じてそういう事はしてはならん。
どこまでも礼節を尽くし、
古式に則った格式のある烏帽子直垂で以って会見に臨み、
とことん話し合いを尽くす事が第一でごわす。」
(朝鮮王朝は強硬な外国攘夷論だったので、あえて洋装ではなく、
旧幕時代の最上級和礼装のほうが良いとしたのでは?)
、、、と何度も主張してされているのに、
何故かいつのまにか真逆の事になってしまっているのだ。
事実、西郷さんを太政官から放逐したあと、
政府は早々に実際に軍事行動を実行している。
歴史は一体なぜ、
こんな真反対の事になってしまっているんだろう?
やっちゃんはホントに納得がいかない。
ところがどうもこの頃の記録が乏しいようなのだ。
(隠蔽した形跡まである。)
意図的なものをどうしても感じてしまうのだ。
恐らく教科書でもそうなってるんだろうな、、、。
勝海舟もこの問題で後年、
「世俗が西郷の遺志を継ぐなどとは片腹いたくなる。
どこに西郷の遺志があるというのだ。
西郷の征韓論なんぞとは馬鹿のいう事よ。
(略)
周りが切るの討つのとはやし立て、
征韓征韓というて、
ついに世論を征韓論にしてしまい、
西郷の意思だと言うて、あたら金玉傑士の西郷を、
空しく城山の地下に埋めたとは泣いても泣き切れぬ。」
と書き残している。
さらに。
「それを今なお西郷が征韓論者などとは
日本の歴史がまるでウソになって帝国の前途が思いやられる。
真の武士道の活用を知らぬ子供らには困るよ。」
と、、、。
勝海舟は西郷さんが眠っておられる墓地、
南洲墓地にこのような歌碑を残している。
「ぬれぎぬを干そうともせず子供らが
なすがまにまに果てし君かな」
南洲墓地に存する勝海舟歌碑

ここで勝の言う「子供」とは私学校の若い士族たちでもあり、
真の武士道の活用を知らぬ
とは、歴史を知らぬ真の国家の尊厳を理解できない未熟者、
という意味だろう。
干そうともせず
とは一切弁明することもなく、という意味だ。
ぬれぎぬ
という言葉がズン、、、と胸に響く。
勝海舟がぬれぎぬと意味するのは征韓論者、だという事と、
西南戦争の首謀者(つまり政府と帝への反逆者)という事の
両方を指しているように思える、、、。
西郷さんは帝への反逆者だという汚名を
自分が一身で被ることを覚悟の上で、
一切の弁明も釈明も、
政府への具体的な糾弾もあるいは一切の恨み言も
何ひとつとして表してはいないし、なんびとにも話してもいないし、
書き残してもいない。
ただ一言、
「政府に尋問の筋之有。」と、、、。
だから勝海舟は西郷さんの代わりにせめて自分が、
「濡れ衣を干そうともせず」
と後世の人々に向けて
大声で言ってやりたかったのだ。
いつの世にもこのような「子供」らが存在している。
世論の煽りをまともに受けて何ひとつ間違っていなかった、と
都合よく歴史を修正し、
自分には大して中身も貢献した確かな実績も無いというのに、
国家の誇りだとか尊厳だとか愛国とやらをやたらと大声で叫び立て、
それが逆に国際世論を敵に回していることにも気づかず、
そのために自分で自国の国力を著しく貶めていることにも気づかず、
激発する人はいつの世にもいる。
今も大勢いる、、、。
国や国土や郷土への誇りも愛も、
人は誰でも心の奥底に本来持っていて当たり前。
それは血脈の中に営々と流れているものだ。
日本人なんだから。
本来の美しき姿だった、と思う。
それを異様なまでに声高に叫んだり、
身の丈以上にやたらと誇らしげに自慢したり、
愛国者気取りで口に出して言わない人を「売国」「反日」などと
口汚く他者を罵り排除する人はキライだ。
、、、またここで、荘内藩とは対照的に
悲惨な道をたどる事になってしまった会津藩のことにも
触れるべきだろう。
「会津の人々はさぞや西郷さんを
今でも恨んではるんやろうなあ、、、?」
とやっちゃんは考えてしまい、
まだあんまり深く勉強できていないのだ。
その辿った悲惨さを思うとつい心が萎えてしまう、、、。
会津や奥州越列藩同盟からすれば薩長こそが大逆賊であっただろう。
ひたすら恭順する徳川慶喜、ひいては主家徳川家そのものを、
無理くりに武力でもって打ち倒そうというのだから、
幕府ご親藩であった彼らにとって許しがたい反逆に違いない。
その首謀者である西郷隆盛たるや彼らから見れば、
島津久光が西郷さんを罵るところの大悪人 だったろうと思う。
元会津藩家老佐川官兵衛、同じく会津藩家老であった山川浩は、
明治政府軍として西南戦争に出征する際、
「薩摩人みよや東の丈夫が提げ佩く太刀の利きか鈍きか」
と歌っている。
また、会津藩出身で当時陸軍幼年学校生徒であった柴五郎は、
西南戦争での西郷隆盛の自決と、
その翌年の大久保利通の暗殺を合わせ、
「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと
断じて喜べり」 と記している。
だけど会津にとって憎い敵である薩摩士族は、
賊軍として西南戦争で徹底的に壊滅する。
その首魁西郷隆盛は全ての官位を剥奪され、
朝敵賊将として死を遂げた。
世俗的な意味としてだけでの会津の薩摩への復讐報復、
という意味でならば、それは完全に果たされただろう。
今は下記のことだけ書く。
さらにもっといろいろ勉強してから、、、。
会津人柴五郎氏の遺書が残っている。
彼は生き延びて後陸軍大将。
その遺書は涙なくして読めない。
柴五郎氏が晩年に書いた「血涙の辞」
「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、
むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり。
多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。
粗衣老體を包むにたり、草木余生を養うにあまる。
ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、
過ぎし日を想えば心安からず、
老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、
懊悩流涕やむことなし。
父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、
語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。
四季の風月雪花常のごとく訪れ、
多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、
非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて
余を招くがごとく、懐かしむがごとく、
また老衰孤独の余をあわれむがごとし。
時移りて薩長の狼藉者も、
いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。
恨みても甲斐なき繰言なれど、
ああ、いまは恨むにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、
心を悟道に託すること能わざるなり。
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。
郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、
藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。
新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに
いかなることのありしか、
子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、
会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。
薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、
たまたま叔父の家に仮寓せる余は、
小刀を腰に帯び、戦火を逃れきたる難民の群れをかきわけつつ、
豪雨の中を走りて北御山の峠にいたれば、
鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、
城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
(略)
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、
着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、
伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、
草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて
生きながらえし辛酸の年月、
いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。
悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して
思慕の情やるかたなく、
この一文を献ずるは血を吐く思いなり、、、。
陸軍大将柴五郎

、、、思えば薩摩島津家もこの時の会津と同様に、
絶対絶命の危機に見舞われた事が過去2回あった。
島津が大友宗麟に勝利し、
ほぼ九州全土を手中にした後の秀吉の九州征伐。
さらに関が原後の家康の島津征伐。
特に始めは藩主義久は頭を丸め、
自ら秀吉本陣に赴き徹底恭順を示したが、
それだけでは許されず義久の弟歳久の切腹、
という犠牲を生んでいる。
この時の弟の死を悲しむ義久の歌が残されている。
歳久公を偲ぶお祭りが今も行われている。
(島津武勇四兄弟といわれる。義久、義弘、歳久、家久。)
2度目の時も関が原敵中突破で薩摩に逃げ戻った弟義弘を、
長兄義久はすばやく桜島に隠し、領内に総動員令を下し国境を固め、
徹底抗戦辞さずの姿勢を示しつつ、
一方で家康に何度も繰り返し使者を送り、
陳謝の意を示しつつ時間を稼ぎ、粘りに粘って家康との交渉に成功。
結局所領全土を安堵させてしまう。
義久の知略にとうとう島津を滅ばせなかった家康は、
薩摩と長州の脅威がいつか徳川幕府の存亡に関わる、
とこの時すでに読んでいて、
「自分の死後、頭は西国に向けて葬れ。」
と言い残している。
つまり徳川幕府270年間を通して、
仮想敵国は薩摩長州だったのだ。
その後も徳川治世において、
何度も薩摩はひどい目にあわされている。(木曽川治水工事とか)
幕府はよっぽど島津をつぶしたかったんだろう、と思う。
これら西国外様藩は幕閣において、
絶対に治世に関わることは許されない、
という状況が実に二百数十年間の長きにわたって、
延々と続いた果てにブチ切れて、
ついに倒幕運動が沸き起こった、という事になる。
さらに言えば、
公武合体とか尊皇攘夷 とかいうけれど、
幕末イデオロギーがどうの とかいうけれど。
実は最大の理由は経済問題だったんじゃあないだろうか?
つまりカネの切れ目が縁の切れ目、
という身もフタもない実態だ。
そう、キーワードは金。
(政治の闇を知るには金の流れを追うべし、
と堤未果氏が言ってる。)
特に薩摩長州藩はすでに貨幣による経済活動をしていたけれど、
(もっといえば海外貿易(密貿易)をしていたけれど)
多くの藩においては米中心経済で、まだそこまで到っていなかった。
(年貢を徴収して分配するのみ)
徳川幕府による貿易経済活動の独占は、
もはやこれ以上は断じて許しがたく、
なんとしてでも打破したい最重要問題だったのではないだろうか?
およそ参勤交代1つとってもこの遠さでは270年間もの間、
なんという難行苦行だったろうか、、、としみじみ思う。
やっちゃんは大阪-鹿児島間を何度か車で往復してても、
そのあまりの遠さに下関あたり(ここで大体半分)で、
もお~体がつらくってつらくって、
「もおイヤだ、、、おうちに帰りたい、、、(涙)。」
(帰るにしても、また同じ距離を走るしかないので、
ただひたすら前に進む他なし。)
って毎回目に涙が滲んでしまうほどだったのだ。
薩摩藩は幕府に対してほんまに忠節の気持ちなんかあったのか?
実は全然なかったんじゃあないのかなあ、、、?
徳川幕府270年間を通して、
リメンバー関が原 だったに違いないのだ。
西郷さんは若い頃に肘を重篤に負傷しており、
身体は巨大だけれど、
けして腕っぷしの強い人ではなかった。
坂本龍馬のような剣客でもなかった。
陸軍大将ではあったけれど、
天才ともいわれる大村益次郎や高杉晋作がごとく、
卓抜した軍事的才能がある人でもなかった。
つまり特別何か、人よりずば抜けた技能や学問があった、
という人物ではなかった、という事だ。
しかも身分はほんとに低かった。
だけど、薩摩藩における西郷さんの人望徳望というのは、
薩摩一藩を大きく動かすほどのものだった。
その大きさはただ単にリーダーシップ、というものの域を
はるかに越えるものだった、といえる。
島津久光は生涯西郷さんを嫌い、憎んだ、
という。
久光は薩摩藩実質君主(藩主の父)でありながら、
多くの薩摩士族たちの心服は西郷さんにあった。
(もちろん久光派という勢力も存在していた。)
本来藩主が持つはずの命令権や影響力を
その人気と人望によって全て奪ってしまった男。
西郷隆盛の行動を一切封じ、終身の島流しにはしたけれど、
(この時の久光の怒りはすさまじく、
大久保利通は西郷さんを道連れに切腹を図ったほどだった。)
西郷さんを望む藩論の高まりによって
結局ついに召還せずにおれなかった、、、。
藩内有志の嘆願により西郷さんを召還する際も、
悔しさの余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残した、
という逸話があるぐらいだ。
特に謎が多い、と言われる
維新後の西郷さんの行動を理解するためには、
この久光という陰の存在抜きには理解できないのだ。
西郷さんを批判する人の多くは、この久光と西郷さんの複雑な関係を
なおざりにしているため西郷さんの行動を誤解している人が
非常に多い、といえるのではないだろうか?
ちょうど木戸孝允がそうだったように、、、。
沖永良部で吹きさらしの牢に数ヶ月も入れられ、
ほとんど死にかけてガリガリにやせ衰えた西郷さん。
土持(つちもち)どんや島ん人たちに助けられなければ
確実にここで死んでた。
藩内での西郷さんの声望が高いので処刑するわけにもいかず、
久光はこのままここでジワジワと殺すつもりだったんだろうな。

沖永良部や奄美大島での西郷さんの足跡が、
西郷隆盛 という人物を知る上でなにより重要だと思える。
これらの離島での日々において、
西郷さんは人生における最も重大な変革を遂げておられるからだ。
沖永良部の土持どんという人は、
南国の最果ての小さな小さな離島の、
貧しくごく非役のお役人だったけれど、
彼の人格的香気は今も尚、はるかな時代を越えて、
深い感動と尊敬の思いをやっちゃん達多くの県民に与えてくれる。
土持どんだけじゃあない。
島の人々、島の子供たち。
西郷さんの命を救い、世話をし、その教えを請い、
その影響を受けて、その後多くが立派な働きをされている。
このような島の人々との出会いと、期間は短くとも深い交わりが、
西郷さんの生涯を通して、
敬天愛人
天を敬い民を愛する
の思想と行動を創り上げたのだ。
西郷さんはもちろん藩主でもなく、藩の重役でもなく、
天才的な何か技能の持ち主、とも言いがたく、
はるかに低い身分の出身であったに関わらず、
なぜそういう存在になりえたのか、、、?
西郷隆盛という人はよほど人間としての尺が巨きい人らしい。
薩摩人たちは西郷さんを指して言うとき、
しばしば大西郷という言い方をする。
古今東西、学者、歴史家、小説家、芸術家、、、
誰もがその西郷像をつかみ難く且つ表現しがたいらしく、
苦心惨憺されている様子が伺えてしまうことが多い。
人はそれぞれ自分の器や物差しで人を判断しがちで、
結局おのれの持つ度量や尺でしか計りようもないのだけれど、
そこに限界が生じてしまうのだけれど、
西郷さんという人は、
およそ余人には計りがたい情量や人格的光芒を持った人らしく、
西郷さんに直かに接した人の多くは、しばしば
「英雄 という言葉だけではとても表現できぬ。」
という人がいるので、
実際直接会ってもいない学者さんごときには
とうていつかみきれないのかもしれない。
司馬遼太郎氏は率直に、
「西郷とは何者なのであろう。
この稿によって筆者は垣根を過ぎてゆく西郷の影を
少しでも見たいと思っているが、
今、彼の片影を見て察するとすれば、
彼にはどうにもならない神聖なものがあった、という事である。」
と嘆息しているけれど、
もしくは多くの学者や評論家連中があれこれと評論しているけれど、
その多くが何故かやっちゃんには、
「西郷さんてほんとにかわいそう、、、。
あることないこと好き勝手な事ばっかり言われて、、、。」
っていう感情がつい沸いてしまうのは
ホントに何故なんだろう?
こんな気持ちにさせられてしまう歴史上人物って、
西郷さんだけやもんなあ、、、。
薩摩には郷中制度という薩摩藩独特の
いわば青少年団的な組織が地域ごとに存在した。
部屋住みの藩士の子弟は皆これに入り、
年長者が年少者の剣術、学問などの教育にあたる、
郷中教育というものが行われた。
年少者は教えられたことを自分が年長になると、
さらに下の者たちに指導する。
つまり必ず全員がインプットアウトプットさせられた。
人間、知識技能を学んで入れるだけではダメで、
次には全部出しきって初めて血となり肉となるからだ。
こうして徹底して薩摩武士としての教育、
質実剛健、死を恐れず勇敢であること、
を基本として少年時代から特別な訓練が行われた。
作家海音寺潮五郎氏は、
この郷中教育で行われた教育内容とほぼ同じものが
会津にもあった。
だから幕末、この二藩のみが戦国時代の気風、
サムライの強さを保持していた、と語っている。
西郷は若くしてこの郷中頭を務め続け、
普通18才で退くところを廻りから引き止められて、
郷中頭を24才まで務めた。
さらに薩摩には、
オセンシ(御先師)
というものが存在した。
オセンシ とはお上が決める役職ではなく、
郷の人々がおのずと推奨する存在で、
薩摩の郷中で発酵するように出来上がってゆく、
リーダー的存在らしいが、
そのオセンシの権限と命令は絶対、であったらしい。
「義を言うな。」
という言葉は今でも存在するが、
「オセンシに逆らうな。」
と言われた。
城下の各小地域に伝統的に存在した、
数多くのオセンシたちの頂点に立つ
大オセンシが、
西郷隆盛であった、といえる。
西郷さんが下野したとき、
明治政府軍の薩摩系近衛士官や軍人たちは、
ほとんど彼の後を追って鹿児島に帰ってしまった。
つまり、明治政府の重大な軍事力の大半が
西郷さんと共に薩摩に戻ってしまった。
薩摩士族は倒幕維新を行い、
明治新政府をつくった最大最強の軍事集団であったにも関わらず、
それが忽然と消えて西郷さんの後を追って、
薩摩大隅の山野の向こうに去ってしまったのだ。
当時の旧薩摩藩は独立国の様相を呈しており、
新政府のいうことなどほとんど聞いていなかったし、
この薩摩という国は、江戸徳川時代300年を通して、
「薩摩の二重鎖国」
と言われるほど、公儀隠密でさえ潜入を許さぬ という、
厳重な国境を曳いている藩だった。
薩摩藩に幕府の密偵が潜入して、
まず二度と無事に戻れた者はいない、という事で、
俗に薩摩飛脚とも言われ、依然その慣習を持ち続けていた。
この最強の薩摩軍事集団が大西郷の号令一下、
一体何をしでかすか、第2維新反乱を起こすのではないか。
国境の向こうは霧に包まれてほとんど情報がわからず、
新政府側にとってそれは恐怖に近い状態だった、、、
実はこの頃の西郷さんは、
鹿児島中を鉄砲を担いで猟師をして歩き回っていて、
ほとんど私宅にも戻らず、
数匹もの犬達と下僕だけを連れて何日も山野を歩き、
地元猟師の民家や山小屋や山奥の温泉湯治場などに泊まり、
温泉に入ったり、囲炉裏端で毎晩猟師たちと猟の話をしたり、
話に興じて猟師たちと大笑いしながら睾丸比べをしたり、
全く野人そのもの の暮らしをしていた、という。
上野の銅像はこの頃の姿 だといわれている。
この頃の湯治場や猟師の子孫の方などの逸話が沢山残っていて、
それらからも西郷さんの人柄がとてもよく偲ばれている。
この時、極力自宅にいなかったのにも理由があり、
全国の不平士族たちが、
西郷決起を求めてぞくぞくと西郷宅に訪れていた。
彼らにうかと会う訳にはいかない。
士族の反乱はそれほど一触即発に近い状況だった、といえる。
薩摩人にとって西郷さんの存在というのは、
リーダーという域をはるかに大きく越えており、
賢人仁者であり、仰ぎ見る巨星であり、同時に慈父でもあった。
彼らにとって西郷隆盛という名は異様なほどの電磁力を帯びており、
それは幕臣たちが徳川家康を東照大権現と崇め奉るのとは
全く意味が違う。
家康は彼らにとって主家でありご主君であるけれど、
主君に忠義忠節を尽くすのは武士たちにとって
当然だったろうけれど、
薩摩人にとって西郷さんは主君でもなんでもなく
身分もはるかに低い出身だった。
彼らの主君は島津久光だ。
ならば西郷さんは独裁者であったか、といえば
けしてそうとは思えないほど、
西郷さんの足跡業績には私欲権力欲、
というのが露ほどかけらも感じられない。
事実、暮らしや身の回りなど、
質素で粗末な人であったことは誰しもが認めるところ。
陸軍大将、参議、近衛都督 という文武の最高位にあった時も、
一書生のような質素すぎるほどの暮らしぶりで、
相変わらず雨漏りのする古家屋に住み、
高官たちはほとんど皆、馬車を乗り回してる中で、
従僕だけを連れて徒歩で太政官に通い(ダイエットもかねて)、
政府高官たちの豪奢な暮らしぶりや不正を激しく憎み、
「幕末、志半ばで死んでいった者達や
戊辰の戦いに散っていった多くの者達に合わす顔がごわはん。」
と涙を流し嘆いていたというのだ、、、。
学問や思想のみの口舌の徒ではないどころか、
現実の大変革を断行、
それを成し遂げた類まれなる指導者であると同時に、
激烈な革命家であったこともまた史実。
特に維新前、前代未聞の策謀を廻らしたり、
驚愕するほどの詳細な情報収集分析活動もしているし、
ただ、人徳清廉綺麗ごと のみの人ではなく、
確かに壮絶なまでの革命実行者、であった。
そのあたりも本当に摑みきるのがむずかしくて、
やはり実際にお会いするより他はないのでは、、、
とさえ思えてくるのもホントに不思議な歴史上の人物、だと思う。
そして何よりも前記事で書いたように、
貧しい民を慈しみ心を添わせ、
清心尽力する情愛の人
、、、という西郷さんの本質。
西郷さんと薩摩の貧しい農民たち、
あるいは奄美や沖永良部の島民たちとのエピソードを見ると、
西郷さんはとにかくほんとにやさしい。
病人や老人や貧しく弱い人々が困っているのを見ては、
とにかくほうっておけない。
相手が士族や軍隊ならば話はまた別だが、
弱い人々、貧しい人々に対する、
西郷さんのそのやさしさ、というのはほんとに
もお、哀しいぐらいにやさしいのだ。
西郷さんに仕えていたある人のこのような証言がある。
「私は13年間一緒に暮らしましたが、
一度も下男を叱る姿を見かけた事がありません。
ふとんの上げ下ろし、戸の開け閉て、その他、
身の回りの事はたいてい自分でされるのです。
でも他人が西郷さんの為にしようとするのを
遮る事もありませんでした。
まるで子供みたいに無頓着で無邪気でした。」
また西郷さんの義理の妹(妻イトの弟の嫁)、
この方はそうとう長生きされた方らしく、
お話しを聞いた実録テープが残っていて、
(実際のテープは薩摩弁で話しておられます。)
「食事に文句を言うのを聞いた事がありません。
毎回、おいしいおいしいと召し上がって、
イトさあに、今夜も良くできました、とおっしゃって、
イトさあは褒めすぎです、と二人で笑っておいででした。」
と、、、。
彼を慕う士族の若者たちに対してもそれは同様で、
愛情深すぎるぐらいの人物なのだ。
そしてこんなエピソードもある。
彼が島津久光を激怒させて徳之島に流罪になった時、
島のある老婆が、西郷さんの流罪の深い事情は何も知らずに、
これが2度目の流罪、だということだけを知って、
「何と心がけの改まらぬことか。」
と西郷さんを叱って説教した。
それに対して西郷さんは、
平身低頭、
涙を流さんばかりにして
その老婆にあやまったという、、、、。
う~ん、、、。
書けば書くほど不思議な魅力に満ちた人物、
だと思えてきた。
そもそも天皇陛下から、
当時、最も過酷で貧しい暮らしを強いられた
離島の島民にいたるまで、
階級というものを大きく超えて、
これほど幅広く愛された偉人というのはちょっと他に見当たらない。
こうして地元鹿児島に住んでいると、
さすがに多くの逸話に接することができるけれど、
そのほとんどが西郷さんが表舞台で活躍されている時の話ではなく、
むしろ不遇にあった時の逸話がほとんどである。
そしてそこにこそ、
今なお多くの県民が西郷さんを愛するのか、、、
というやっちゃんの問いの答えがある。
斉彬公に見出される前の下級役人であった時代の逸話、
あるいは島流しされていた時の島の人々との多くの逸話、
あるいは下野したのちの山野に寄居されていた時代、
あるいは原野を開墾されているとき、、、。
西郷さんと直かに会われていて、
昭和まで長生きされた方のお話や、
それらの子孫の方々のお話など、
実に多くの逸話が残っている。
それらが意味するのは、
いかに西郷さんが農民や猟師や島民や、
多くの貧しく弱い立場にある人々と、
そのほとんどの人生をともに存ったか、、、
を実感することができるのだ。
増田宋太郎という中津藩士が存在した。
彼は国学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。
福澤諭吉の再従弟に当たり、福澤の価値観に魅せられ、
その後慶應義塾へ入学。
慶應義塾で学んだのち、民権運動に開眼し、
中津帰郷後、英学を教える一方「田舎新聞」を創刊する。
維新後は攘夷思想を改め自由民権運動にも参加。
つまり彼は大変な知識人だ。
その増田が西郷さんと共に西南戦争に薩軍として従軍し、
中津隊を率いた。
そして和田峠の戦いで敗れた後、
西郷さんが解軍の令を出して故郷へ帰る隊もある中、
最後まで西郷さんに付き従った。
中津人たちは増田一人だけが薩軍にとどまり、
他に対しては故郷へ帰れ、というのは道理にあわぬ、
皆で中津を出てきたのだから皆で一緒に中津に帰るべきだ、
君だけが薩軍に残る、というのはわからない、と言った。
そこで増田は、
「自分は理屈の多い人間だが、
人の気持ちというのは理屈では必ずしもわからないものだ、
ということが今度、自分を見つめていて初めてわかった。
自分は諸君から選ばれて隊長になった。
隊長になると自然西郷という人格にしばしば接した。
諸君は幸いにも西郷を知らない。
自分だけがそれを知ったが、もはやどうにもならぬ。」
と言い、たちまちハラハラと涙を流した。
中津人たちは増田の様子の異常さに驚き、さらに訳を聞いた。
この時の増田の言葉が中津の人々に記憶されているという。
「吾此処に来り、
始めて親しく西郷先生に接することを得たり。
一日先生に接すれば一日の愛生ず。
三日先生に接すれば三日の愛生ず。
親愛日に加はり今は去るべくもあらず。
今はただ死生を共にせんのみ。」
、、、という言葉を増田宋太郎は残している。
最後は城山の戦いで戦死し、
現在は南洲墓地で西郷さんや桐野さんたちと共に
眠っている、、、。
西郷さんの本質はこういう事 なんだと思う。
後世の人間が、評論しても小説にしても、
なんとしてもその人間像に迫るのがむずかしいようで、
誰もが四苦八苦してるんだけれど、
実際に会ってしまうと、もうどうにもならない のかもしれない。
それは村田新八もまた同様で、
洋行してつぶさに近代欧米世界をよく知り理解し、
明治政府の高官になれるはずの身で全てを断り、
西郷さんの元へ走り従軍し、最後を共にする、、、。
アーネスト・サトウが西郷びいきだった、
という事はよく知られているけれど、
そのサトウの親友で元英国公使館医師の
ウイリアム・ウイルス(薩摩医学校主任)などは、
薩摩軍に従軍したい、とまで申し出たという。
西郷さんと深い縁で結ばれた英国医師のウイリアム・ウイリスが、
酪農の推進事業を行った吉野牧場は吉野開墾社と同じ吉野にあった。
ウイリアム・ウイリスは、
西郷隆盛の薦めで西洋の近代的な医学校を鹿児島でつくった人物。
彼は、日本人の健康と体力増進のために、
ミルクとバター、肉を摂取するために、酪農経営と羊の家畜経営を吉野台地で提案。
ウイリスは吉野牧に行って牧草地に適していることを調べている。
食生活ばかりではなく羊毛製品も考えていた。
吉野牧のあまり利用していない土地を新しい地域産業にしていくことを
地域の人々とともに考えていた。
ウイリスは緒方勇右衛門と野村権兵衛に依頼している。
すでにバターの試食を両氏の家でしている。
鹿児島の近代医療の発展はイギリス医療であった。
ウイリスは実際の生活を重視して健康と福祉の考えをもって持っていた。
アーネスト・サトウが西郷さんの風貌を指して、
「黒ダイヤのように大きな目玉をしているが、
しゃべる時の微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった。」
と表現している。
西郷さんを知れば知るほど、離れがたく、
愛が生じてしまう、、、。
、、、と西郷さんの事をここまで色々と書いてきて、
ウチのかっちゃんらが西郷さんを
今も昔も深く敬愛するのも無理ないなあ、、、と思えてきた。
彼の祖母は100才近くまで生きた人なんだけれど、
お母さんが今90才だから、
おばあちゃんはまさしく明治を生きた人。
かっちゃん幼い頃に祖父や祖母や古老たちは、
西郷さんや西南戦争の話を話して聞かせただろう。
最後の城山の攻防、政府軍の山県有朋は、
城山の周囲を蟻一匹這い出る隙もないほどに包囲した。
西郷方の薩軍372人に対して、政府軍は総勢なんと5万人。
日本戦史のなかでも、これほどの戦力差は珍しいという。
、、、今、西郷さんが静かに眠る南洲墓地には749基の墓石があり、
西南戦争で戦った西郷軍2023名が眠っている。
菊池寛氏がここを訪れて、
「西郷隆盛以下、薩軍の諸将の墓地が壮大である。」
と述べている。

西郷隆盛を中心に、
桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、
別府晋介、桂久武、永山弥一郎、小倉壮九郎ら勇将たち、、、
彼らの多くは下野するまで明治政府における、
近衛陸軍少将や大尉など将校だった人々あり、
薩摩において木気者(ぼっけもん)と呼ばれる人々だった。
木気者とは古来薩摩藩においては最大の褒め言葉であり、
「命知らずの男の中の男」というような意味だった。
質実剛健、勇猛果敢、豪放磊落、果断実行 、、、。
裏表がなく竹を割ったような性格行動の人を薩摩ではこう呼んだ。
現代人の目にはぼっけもんは粗野な乱暴者に映るかもしれない。
否定的な見方をする人のほうが多いかもしれない。
だけど、古来薩摩藩においては藩をあげて、
士族の子弟をぼっけもんに仕立てあげることに熱中したという。
司馬遼太郎の名作「翔ぶが如く」の元となる、
「なこよっかひっとべ!」
という言葉があるが、
「義を言うな!」
という言葉もある。
理屈を言うな、ということになるだろう。
むしろ学問はまあほどほどでよい、と。
とにかく議論するより颯爽とした勇気と行動を美徳とした
お国柄なのだ。
こういうあたり長州や、
同じ九州でも肥後や佐賀とはずいぶん違うなあ、、、と思う。
さらに、まことに薩摩武士らしい生涯を生きた県令大山綱良。
彼のいかにも立派な墓が建てられている、、、。
増田宋太郎さんのお墓もある。
他藩の方なので、少し西郷さんと離れてるのが
やっちゃんはちょっと可愛そうに感じたんだけど、
堂々と立派なお墓がある。
そしてわずか14才で最年少の伊地知末吉、池田孝太郎、児玉5人兄弟や
遠く西郷さんを慕って従軍した庄内藩の伴兼之、榊原政治、
福岡、大分、山梨などの各県出身者たちの名も見られる。
特に荘内藩の若いお二人の名前を見ると、
やっちゃんは胸に迫るものがこみ上げて来た、、、。
「田原坂(豪傑節)」
雨は降る降る人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかに美少年
これは西南戦争田原坂での壮烈な戦いを歌った民謡。
この「馬上ゆたかに美少年」とはモデルがあり、
村田新八の長男村田岩熊だといわれている。
写真に残る村田新八は、
英国紳士のような端正な顔立ちなのだから
さもあらん、、、。
激しい雨の中、
銀装の太刀を帯び黒光りの銃を腰にはさみ、
緋色のマントをひるがえし、
剣先を天に突き上げ猿叫一献(えんきょういっこん)、
薩摩示現流で骨をも打ち砕かんとする、
篠原国幹の姿が目に浮かぶようだ。
こういう篠原や桐野の爽快な豪傑ぶりが薩摩人たちは
大好きでたまらなかったという、、、。
桐野利秋、永山弥一郎らは西郷さんの右隣、
篠原国幹、村田新八、桂久武、別府晋介らは左隣、、、。
西郷さんを固く守っているようにも
西郷さんを中心にみんなで周りに寄り添っているように見える。
愛する人と共に戦い、共に死んで行く事が、
彼らにとって無上の幸せだったんだろうなあ、、、。
鹿児島市内ほとんどどこに居ても、
桜島の堂々たる威容を見る事ができる。
信州へ行った時にアルプスの標高の高い山々に圧倒されたけれど、
あれとはまた全く違う。
どっしりと巨大で男性的な存在感を感じる。
堂々と地球に根付いて絶えず火を噴き煙が立ち昇り、
悠然と四方ににらみを利かせ、
少しずつ表情を変えながらその変わらぬ圧倒的な存在感で、
人の営み暮らしを見守るように見下ろしている。
その姿には恐ろしさよりも、
何故だか不思議なことに、
雄々しい父のような逞しさを感じてしまうのは
やっちゃんだけではないようだ。
テレビの街角インタビューで若い女性たちが、
「今日も桜島はよかにせどん(いい男)です。
桜島を超える程のよかにせは鹿児島中探してもいないんです。」
って言ってて、
なるほどやっぱり西郷さんと桜島はよく似てる、、、
と改めて実感した。
西郷さんはその黒ダイヤのように大きな目で、
今の日本の世をどのように見つめ嘆いておられるのだろうか、、、?
そういえば現代のリーダー論に、
つまり人の上に立つ人の要素として、
知識やスキルの方ばかりが重要視されていて、
人としての気高さや清廉さがほとんど
重要視されてない気がする。
これは大久保利通も同様で、
彼の暗殺後調べたところ、
彼が自腹で明治政府に立て替えた金額は莫大で、
多額の借金が残っていて、
手元には20円しか残っていなかったという、、、。
前記事と繰り返しになるけど、
何度でも言いたいけど、
利権まみれの政治家たち、
耳の穴かっぽじって、
あんたらに良~く聞かせてやりたい。