2011.
11.
15
故郷への愛・・・3
3月11日、無残な津波の状況が繰り返し報道される中、
夜になってから、枝野官房長官から
「原子力緊急事態宣言」が発動され、
その2時間後に、まず2キロ圏、さらにその後3キロ圏と
避難命令が出されました。
翌3月12日早朝、さらに避難区域が10キロに拡大され、
そして、またもやこの日の夜になってから、
さらに20キロ圏外へと段階的に避難命令が
発動されました。
これらのことが厳寒の真っ暗闇の恐怖の中で、
九死に一生、何とか津波から逃れた方たち、
また津波の被害はまぬがれたものの、原発被災した方たち、
とくに高齢者の方、障害のある方や
その周囲の方たちにとって、
死ぬほどの苦痛をもたらせています。
そしてその午後、、、日本中の人が、
いくつも並ぶ原子炉建屋の中の1つが、
鉄骨がむき出しになっている映像を見ました。
「建屋の壁と屋根がない、、、! 」
映像はとても遠くからで、画像は不鮮明、
しかも大阪ではその画像が映し出されたのは読売テレビのみで、
他のチャンネルでは当初全く出てきませんでした。
他チャンネルのキャスターの人も、
知らなかったのかどうなのか、
当初はこのことに対するコメントは全然なかったと思います。
( 映像自体が出てなかった。)
ただ、読売だけが、その不気味に無言で鉄骨をむき出しにした
1号機原子炉建屋の映像を写していました。
「一体何が起こっているの、、、?」
その映像を最初に見てからずっとあと、
夜になるまで政府からも何の発表もなく、、、。
あとになって現地被災者の方たちに聞いて
わかったことなのですが、
やはりこの11日夜から12日深夜、13日未明にかけて、
小出しに出される避難区域の拡大で、
何度も何度も移動を繰り返し、
被災者の方たち、
とくに自力で動けない高齢者の方たちなど、
最も弱い方とその周囲の方々に、
表現しがたい過酷な現実があったのです、、、。
なんで避難区域を一発で発令しなかったのか?
すでに前日の19時、緊急事態宣言が出ていたのに。
それ以前に「10条通報」「15条通報」と、
最も危機的なレベルの警報が出ていたのに。
なぜ何度も小出しに拡大したのか、、、。
今となってはわかりません。
ようやく5時間もたった夜になってから、
1号機で水素爆発が起こったこと、
さらに避難区域を20キロ圏に拡大したこと、
まもなく原子力安全・保安院から詳細な記者会見が行われる、
などが発表され、その記者会見を固唾をのんで待ちました。
もうかなり深夜だった、と思いますが、
ようやく保安院の人たちの記者会見が始まったのですが、
その内容は、、、。
「ボケ、カス、アホ、ひっこめーっ。」
( あっ、、、すいません。 また河内弁が、、、。)
と、思わず吠えたくなるようなお粗末な、
まるで他人事のような記者会見でした。
「この原子力安全・保安院って一体何なの!?」
こんな連中があんな危険なものを管理しているワケ!?」
私には政府の原子力組織構造の内幕まで詳しくは知りませんが、
原子力に関する政府官僚の、
トップの人たちであることぐらいはわかりました。
あの深夜、そのように感じた人は私だけではないと思うのですが、、、?
「念のために。」と枝野さんがしつこく繰り返すあいだ、
すでにこの時、私の頭の中に
「チェルノブイリ、、、メルトダウン、、、プルトニウム、、、。」
などという恐ろしい単語がチラホラと浮かんできていました。
もうずいぶん昔、(いつの間にか25年にもなってたんですね、、、。)
あのチェルノブイリ原発事故の直後に
原子力発電所に関することを書いた本を1冊だけ
読んだことがあったんです。
たしか題名は「危険な話」か、、、「怖い話」か、
だったと思うのですが、、、。
うう、、、著者さんが思い出せない、、、。
ものすごく怖い内容で、この本を読んだあとでは
もう、とっくに原子力の「安全神話」はなかったです。
つい去年のこと、鹿児島の実家から
約40キロほどの薩摩川内市に、
川内原発3号機を建てる、というニュースを見て、
「正気の沙汰とは思えないよー。」
と、わめいていたところでした。
すぐに本棚をひっくり返して、この本を探したのですが、
以前引っ越しした時に本をかなり処分してしまっていたので、
残念ながら出て来ませんでした。
うらおぼえの、つぎはぎだらけの乏しい知識を探っていっても、
「たしか鉄は1500度とか2000度とか
その程度で溶けるんじゃなかったっけ、、、。
なら、このままいってしまうと、
メルトダウンになるんじゃ、、、!?」
この時点で夫はメルトダウン、という言葉は初耳だったようで、
いいかげんであいまいな知識ながら、知ってることを話しました。
かなりショックを受けているようでした。
そしてこのあと、さらに3号機の大爆発、2号機爆発、白煙、
4号機の爆発、火災と、、、。
この時点では、まだ通常通り仕事が動いていたので、
夫は帰宅後の夜のニュースに食い入っていたのですが、
依然Kさんとも連絡が取れないこともあって、
だんだんと口数が減っていき、、、。
ときおり涙目になっていたりもしていました。
( もともと、お葬式などでも良く泣く人なのですが、、、。)
3月25日前後、だったでしょうか?
ようやくKさんから夫に連絡が入り、家は1部損壊、
家族は全員無事であること、現在は避難所にいること、
しかし自宅が20キロ圏内のため、
とりあえず茨城の親せき宅に移動するつもりでいること、、、。
などがわかり、
「沿岸部はものすごい状況になってる。
身1つで家材もほとんど置いてきた。」と、、、。
このころに、各メーカーさんの工場が
被災したことがわかっていました。
どこも栃木、千葉、群馬、つくば方面にあり、
製品出庫が当面できなくて、
見通しはどうなるのかわからない、と、、、。
何とか3月までの現場は在庫分で稼働できそうでしたが、
4月以降は全て吹っ飛んでしまいました。
なので、職人さんたちは次に仕事が動き出すまで、
休んで頂くことにしました。
月給制なので、お給料の方は心配しなくてもいいから、
と話をして納得してもらいました。
3月一杯、忙しくしながら、
夫は私には、何か思いつめたような様子を
ずっと見せていたのですが、、、。
最後の日に、みんなで倉庫のかたづけをすませ、
その夜に
「これで明日からの仕事はなくなった。
俺は思い切って南相馬へ行ってくる。 止めるなよ。」
と、言いだしました。
つづく
NEXT Entry
NEW Topics