2011.
12.
08
その①
夫は昔から京セラの名誉会長 稲盛和夫さんを
とても尊敬しているようでした。
夫の中で尊敬する人、
1位 西郷隆盛
2位 西郷隆盛
3位 西郷隆盛 でしょうか、、、?
で、同点3位ぐらいで稲盛さんを尊敬してるみたいです。
鹿児島の人の同県意識って、ほんまに強いもんがあるねんなあ、
って、いっつも感心するんだけど、夫もやはり自分と同県人であり
偉大な先達者として昔も今もこのお二人が大好きなようです。
彼はあんまり文芸書なんかほとんど読まない人なのですが、
ごくたまーに、
「へえー。 めずらしく何やら本を読んでるなー。」
とのぞくとたいがい「西郷隆盛」に関する歴史書を読んでいます。
で、けっこう間があいて、またもやめずらしく何か読んでるな、
という時もやっぱり「西郷隆盛」を読んでます。
私の見る限り、西郷さんが出てこない本を読んでるの、
ほとんど見たことないです(笑)。
県人会にももちろん入っていて、
仕事に追われてぜんぜん集まりには出席できてないんですが、
「稲森さんに、いつか会いたいな、、、。」
などと恐れ多い気持ちを持ちつつ入会したようです。(笑)
被災地南相馬のお話をずっと書かせて頂いているのですが、
→故郷への愛・・・1~10 はこちらからどうぞ
4月入ってすぐに夫と2人で、
その後月末に夫が再度単身現地入り。
さらにその後5月、6月と今度は私が1人で1ヶ月間、
南相馬の高齢者の方たちが今後、仮設住宅に移られたあとの
介護のことで、単独でちょこまかとあっちこっちへと
動きまわっていたのですが、、、。
いよいよ大阪に戻る日が近づいて、
今度はいつここへ戻って来られるかわからないので、
かねてより私の中にある強い思いがあって、この地を去る前に
何としても実現させたいことが1つ、あったんです。
私がずっと関わっていた避難所の石神第一小学校体育館の中で、
最後に民謡大会をやりたかったんです。
何故ならこの南相馬には、この時点でやはり
放射能の影響のためなのか、芸能人の方の訪問がほとんどなくて、
ごく1部の方しか来られてなかったの。
( 6月時点で南相馬を訪問下さった方々。 )
杉良太郎さん
伍代夏子さん
加藤トキ子さん
さだまさしさん
松原のぶえさん
みなさん、本当にありがとうございます!
マスコミ各社も入れ替わり立ち替わり取材に来てましたが、
この時点では各マスコミの社員の人ではなく、
全てフリーのライターの方だったと思います。
社員で来ていたのは、「ニコニコ動画」ぐらいでしょうか?
( すごいぞ ! ニコニコ動画(笑)。
大手マスコミ社員たちは1号機が爆発したときに
50キロ圏外にみんな逃げたらしい。)
もちろん財界の大物なんて
ここで見たことなど1度もありません。
宮城、岩手の方にとてもたくさんの芸能人が
行ってらっしゃるのをニュースで見ていて、
みんなやっぱり、さみしそうにしてるので、
ほんのひとときだけでも、何かで楽しんでもらいたいなあ、、、。
という思いがずっと強くあったんです。
この時ほどやっぱり芸能人の人たちのインパクトはすごいなあ、
と改めて実感してました。
ちょうどこの頃、長淵剛さんがあれは宮城石巻だったか、、、。
被災地を慰問されて、そして自衛隊の方たちの前でも
熱いコンサートをしているのをTVで見てて、
「いいなー宮城県。ここにも誰かもっと来てくれないかなあ。
そしたらみんなどんなにか勇気づけられるだろうにな、、、。」
と、しみじみ思ってました。
( ゆうべ(12月10日)判明しました。
長淵剛さん、あのとき相馬市にも来て下さってたんですって。
コンサートはできなかったらしいですけど、、、。)
色んな芸能人の人が被災地に慰問に訪れるのを、
「売名行為」とか批判するマスコミもありましたが、
「それがどーした。 売名行為で何が悪い。
彼らの励ましほど、強烈なものはないんだからね。」
とかずっと思ってました。
実は私「吉本興業」社長宛てにあつかましくFAXしたんです。
どなたか芸人さん、来てほしいって。
そして思いっきり笑わせてあげてほしいって、、、。
でも残念ながら、社長さんからは全然反応、なかったの、、、(笑)。
加藤トキ子さんたちも避難所の中まで来て頂くことはできなくて、
公民館などの集会可能なところまででした。
避難所の中は100人近くの避難者の人が
生活している場所なので、かなりたくさんの生活物資や器材、
もちろんおふとんも一杯ひいてあって、
はっきりいってもう、ごちゃごちゃーっとしてて、
大きな音響資材などを設置しての
大勢の人が集まる催しはしちゃダメって言われてて、、、。
公民館まで移動できない高齢者の人は結局、
何か大きな催しがあってもいっつも参加できなかったの。
おじいちゃんたち、みんな夜寝るの早いしね、、、。(笑)
地元NPOの方や、音楽活動されてる方の小さな
ミニコンサートなどは何度かあったんですが、
どちらかといえば若い人向けの音楽が多かったので、、、。
「じーさまばーさまたちに、
何かやって楽しませてあげたいなあ、、、。
でも芸能人の方にこの避難所の中まで来て頂くのはとうてい無理。
なら私がやっちゃおうかな、、、?」
と、考えてしまいました。
この後、私が帰った直後に、石神第一小の中まで
青葉城恋唄で有名なさとう宗幸さんが来て、
熱唱して下さいました。
さとう宗幸さん、ほんとにありがとうございました!
(これもゆうべ(12月10日)知りましたが
さとう宗幸さん、加藤登紀子さん、この時だけでなく
もう何度も来て下さっているそうです。)
で、亡くなった父母が民謡が大好きだったのと、
この南相馬は素晴らしい民謡の宝庫の地。
「ここで民謡大会とカラオケ大会やっちゃおう。」
と、考えて初めは1人でごそごそと準備していました。
もちろん私は民謡なんてむずかしくて歌えないので、
テープを流して、せめて「お囃子」だけでも生演奏で入れようと、
「鉦と太鼓と鈴」を用意してきてました。
両親が生前民謡教室に通っていたので、
その頃の先生にお願いして一式をお借りしてきていたんです。
私1人での企画運営はとても無理なので、最後の数日間だけ
夫も大阪から応援にかけつけてくれてました。
でも民謡はともかく、カラオケ大会は、
「もしかしてこんな時に不謹慎かもなあ、、、。」
と私にしてはめずらしく(笑)、慎重にならざるを得なかったの。
100人近い被災者の方は全て、津波、原発事故で
想像をこえる悲惨な体験をくぐってきた直後ですから、
精神的にかなり不安定な状態の方もたくさんいて、
こういういわば、にぎやかな鳴り物入りの催しが
体調にこたえててしまう場合も充分考えられたので、
1週間ぐらい前から1人ずつ「根まわし」を開始しました。
「ねえねえ、こういうことやろうかなって
計画してるんだけど、みんなどう思う?」
「えっ やっちゃん、ほんとにそんなことやってくれるの?」
「でも、いいのかなあ? そんなことやっても。」
「いい、いい。 すごくいいっ。 やってやって。
みんなもう、すごいストレスたまってるの。
みんなで楽しく、ぱーっとやろうよ。」
「わーかった。 じゃあまかせて。思いっきりやっちゃうよ?」
と、全員は無理でしたが、ほぼ根回しは完了しました。
南相馬の人、無口っていう印象、私はあんまりなかったなあ、、、。
皆さんけっこうすごいおしゃべり。
一番仲良かった、軽トラごと津波に飲みこまれて死にかけた
Mさんの奥さんなんか、しゃべり出したら止まらないんで、
「奥さんごめん。私ちょっとトイレ。」って、、、(笑)。
Mさん気の毒に、一晩中電信柱にしがみついて生きのびてたのに
次の日奥さんに
「あんたッ、生きてんならなして早よ携帯してこねえべっ。」
ってえらい怒られたんだって、、、(笑)。
地震当時の壮絶な体験、こっちからは絶対聞かないんだけど、
自分から事細かに話してくれる人、けっこう多くて、
いっつも喫煙所でみんなでタバコ吸いながら(笑)、
お話、たくさん聞いてたの。
「うん、うん、、、。
大変だったね、、、ほんとによく頑張ったね、、、。」
ってお話聞くことしかできないんだけど、、、。
でもやっぱりすごい遠慮しい。 そして頑固(笑)。
説教好きのおじいちゃん、何人かいて、
「おい、ここ来て、ちょっと座れ。」
って手招きして呼ばれて、
行って、ははーって正座して説教聞いて(笑)、
「おめえは中々素直でええ。」
って、よく誉められた(笑)。
地元のボランテイアの人も、
すぐにあれこれと協力して下さる方たちが増えてきて
皆さんが色々と知恵を出して下さって、
ある情報をつかみました。
同じく南相馬市在住の「民謡全国大会一位」になっている
すごい歌い手の人がいる、という情報をつかみ、
急きょその夜に夫と2人あつかましくご自宅へ押しかけて行って
お願いに上がったんです。
「渡部英夫さん」っていう地元の大工さんなんだけど、
東京両国国技館での民謡全国大会とかで
何度も何度も上位入賞している方なので、
何度もTV出演なさっているそうなの。
どこの馬のホネともしれない、
突然の我々の夜になっての訪問と無理なお願いに、
「承知しました。もちろん喜んで謳わせてもらいますよ。」
って即決で承知して下さって、
「それはそうとやっちゃん演奏はどうするべ?
三味線は? 尺八は?
太鼓と大太鼓もなんだったら呼ぼうか?」
と、いつも一緒にやっている演奏家の方たちに
その場ですぐに連絡をとって、
みなさんからOKを取って下さったんです。
もう、本当にうれしくて大感激でした。
「すごいよ! 生で日本一の民謡が聞けるなんて!
これでおじいちゃん、おばあちゃんたち、
どんなに喜んでくれるだろう!」
その南相馬を去る最後の日に、
夕方からの予定の民謡、カラオケ大会の
準備をすすめていたときに、
避難者の方たちのお昼の食事が終えたころ、、、。
石神第一小学校避難所の出入口の扉が
ガラガラガラっと開いて、
背広姿の男の人たちが
10-13人ほどだったでしょうか?
突然静かに入って来たんです。
「ここに背広姿の男が来るって
めずらしいなあ。 一体どこの何者? 」
って思ってよくよく見ると、、、。
その真ん中にひっそりと静かにたたずんでいらしたのが、
なんと京セラ名誉会長稲盛和夫さんだったんです。
つづく
夫は昔から京セラの名誉会長 稲盛和夫さんを
とても尊敬しているようでした。
夫の中で尊敬する人、
1位 西郷隆盛
2位 西郷隆盛
3位 西郷隆盛 でしょうか、、、?
で、同点3位ぐらいで稲盛さんを尊敬してるみたいです。
鹿児島の人の同県意識って、ほんまに強いもんがあるねんなあ、
って、いっつも感心するんだけど、夫もやはり自分と同県人であり
偉大な先達者として昔も今もこのお二人が大好きなようです。
彼はあんまり文芸書なんかほとんど読まない人なのですが、
ごくたまーに、
「へえー。 めずらしく何やら本を読んでるなー。」
とのぞくとたいがい「西郷隆盛」に関する歴史書を読んでいます。
で、けっこう間があいて、またもやめずらしく何か読んでるな、
という時もやっぱり「西郷隆盛」を読んでます。
私の見る限り、西郷さんが出てこない本を読んでるの、
ほとんど見たことないです(笑)。
県人会にももちろん入っていて、
仕事に追われてぜんぜん集まりには出席できてないんですが、
「稲森さんに、いつか会いたいな、、、。」
などと恐れ多い気持ちを持ちつつ入会したようです。(笑)
被災地南相馬のお話をずっと書かせて頂いているのですが、
→故郷への愛・・・1~10 はこちらからどうぞ
4月入ってすぐに夫と2人で、
その後月末に夫が再度単身現地入り。
さらにその後5月、6月と今度は私が1人で1ヶ月間、
南相馬の高齢者の方たちが今後、仮設住宅に移られたあとの
介護のことで、単独でちょこまかとあっちこっちへと
動きまわっていたのですが、、、。
いよいよ大阪に戻る日が近づいて、
今度はいつここへ戻って来られるかわからないので、
かねてより私の中にある強い思いがあって、この地を去る前に
何としても実現させたいことが1つ、あったんです。
私がずっと関わっていた避難所の石神第一小学校体育館の中で、
最後に民謡大会をやりたかったんです。
何故ならこの南相馬には、この時点でやはり
放射能の影響のためなのか、芸能人の方の訪問がほとんどなくて、
ごく1部の方しか来られてなかったの。
( 6月時点で南相馬を訪問下さった方々。 )
杉良太郎さん
伍代夏子さん
加藤トキ子さん
さだまさしさん
松原のぶえさん
みなさん、本当にありがとうございます!
マスコミ各社も入れ替わり立ち替わり取材に来てましたが、
この時点では各マスコミの社員の人ではなく、
全てフリーのライターの方だったと思います。
社員で来ていたのは、「ニコニコ動画」ぐらいでしょうか?
( すごいぞ ! ニコニコ動画(笑)。
大手マスコミ社員たちは1号機が爆発したときに
50キロ圏外にみんな逃げたらしい。)
もちろん財界の大物なんて
ここで見たことなど1度もありません。
宮城、岩手の方にとてもたくさんの芸能人が
行ってらっしゃるのをニュースで見ていて、
みんなやっぱり、さみしそうにしてるので、
ほんのひとときだけでも、何かで楽しんでもらいたいなあ、、、。
という思いがずっと強くあったんです。
この時ほどやっぱり芸能人の人たちのインパクトはすごいなあ、
と改めて実感してました。
ちょうどこの頃、長淵剛さんがあれは宮城石巻だったか、、、。
被災地を慰問されて、そして自衛隊の方たちの前でも
熱いコンサートをしているのをTVで見てて、
「いいなー宮城県。ここにも誰かもっと来てくれないかなあ。
そしたらみんなどんなにか勇気づけられるだろうにな、、、。」
と、しみじみ思ってました。
( ゆうべ(12月10日)判明しました。
長淵剛さん、あのとき相馬市にも来て下さってたんですって。
コンサートはできなかったらしいですけど、、、。)
色んな芸能人の人が被災地に慰問に訪れるのを、
「売名行為」とか批判するマスコミもありましたが、
「それがどーした。 売名行為で何が悪い。
彼らの励ましほど、強烈なものはないんだからね。」
とかずっと思ってました。
実は私「吉本興業」社長宛てにあつかましくFAXしたんです。
どなたか芸人さん、来てほしいって。
そして思いっきり笑わせてあげてほしいって、、、。
でも残念ながら、社長さんからは全然反応、なかったの、、、(笑)。
加藤トキ子さんたちも避難所の中まで来て頂くことはできなくて、
公民館などの集会可能なところまででした。
避難所の中は100人近くの避難者の人が
生活している場所なので、かなりたくさんの生活物資や器材、
もちろんおふとんも一杯ひいてあって、
はっきりいってもう、ごちゃごちゃーっとしてて、
大きな音響資材などを設置しての
大勢の人が集まる催しはしちゃダメって言われてて、、、。
公民館まで移動できない高齢者の人は結局、
何か大きな催しがあってもいっつも参加できなかったの。
おじいちゃんたち、みんな夜寝るの早いしね、、、。(笑)
地元NPOの方や、音楽活動されてる方の小さな
ミニコンサートなどは何度かあったんですが、
どちらかといえば若い人向けの音楽が多かったので、、、。
「じーさまばーさまたちに、
何かやって楽しませてあげたいなあ、、、。
でも芸能人の方にこの避難所の中まで来て頂くのはとうてい無理。
なら私がやっちゃおうかな、、、?」
と、考えてしまいました。
この後、私が帰った直後に、石神第一小の中まで
青葉城恋唄で有名なさとう宗幸さんが来て、
熱唱して下さいました。
さとう宗幸さん、ほんとにありがとうございました!
(これもゆうべ(12月10日)知りましたが
さとう宗幸さん、加藤登紀子さん、この時だけでなく
もう何度も来て下さっているそうです。)
で、亡くなった父母が民謡が大好きだったのと、
この南相馬は素晴らしい民謡の宝庫の地。
「ここで民謡大会とカラオケ大会やっちゃおう。」
と、考えて初めは1人でごそごそと準備していました。
もちろん私は民謡なんてむずかしくて歌えないので、
テープを流して、せめて「お囃子」だけでも生演奏で入れようと、
「鉦と太鼓と鈴」を用意してきてました。
両親が生前民謡教室に通っていたので、
その頃の先生にお願いして一式をお借りしてきていたんです。
私1人での企画運営はとても無理なので、最後の数日間だけ
夫も大阪から応援にかけつけてくれてました。
でも民謡はともかく、カラオケ大会は、
「もしかしてこんな時に不謹慎かもなあ、、、。」
と私にしてはめずらしく(笑)、慎重にならざるを得なかったの。
100人近い被災者の方は全て、津波、原発事故で
想像をこえる悲惨な体験をくぐってきた直後ですから、
精神的にかなり不安定な状態の方もたくさんいて、
こういういわば、にぎやかな鳴り物入りの催しが
体調にこたえててしまう場合も充分考えられたので、
1週間ぐらい前から1人ずつ「根まわし」を開始しました。
「ねえねえ、こういうことやろうかなって
計画してるんだけど、みんなどう思う?」
「えっ やっちゃん、ほんとにそんなことやってくれるの?」
「でも、いいのかなあ? そんなことやっても。」
「いい、いい。 すごくいいっ。 やってやって。
みんなもう、すごいストレスたまってるの。
みんなで楽しく、ぱーっとやろうよ。」
「わーかった。 じゃあまかせて。思いっきりやっちゃうよ?」
と、全員は無理でしたが、ほぼ根回しは完了しました。
南相馬の人、無口っていう印象、私はあんまりなかったなあ、、、。
皆さんけっこうすごいおしゃべり。
一番仲良かった、軽トラごと津波に飲みこまれて死にかけた
Mさんの奥さんなんか、しゃべり出したら止まらないんで、
「奥さんごめん。私ちょっとトイレ。」って、、、(笑)。
Mさん気の毒に、一晩中電信柱にしがみついて生きのびてたのに
次の日奥さんに
「あんたッ、生きてんならなして早よ携帯してこねえべっ。」
ってえらい怒られたんだって、、、(笑)。
地震当時の壮絶な体験、こっちからは絶対聞かないんだけど、
自分から事細かに話してくれる人、けっこう多くて、
いっつも喫煙所でみんなでタバコ吸いながら(笑)、
お話、たくさん聞いてたの。
「うん、うん、、、。
大変だったね、、、ほんとによく頑張ったね、、、。」
ってお話聞くことしかできないんだけど、、、。
でもやっぱりすごい遠慮しい。 そして頑固(笑)。
説教好きのおじいちゃん、何人かいて、
「おい、ここ来て、ちょっと座れ。」
って手招きして呼ばれて、
行って、ははーって正座して説教聞いて(笑)、
「おめえは中々素直でええ。」
って、よく誉められた(笑)。
地元のボランテイアの人も、
すぐにあれこれと協力して下さる方たちが増えてきて
皆さんが色々と知恵を出して下さって、
ある情報をつかみました。
同じく南相馬市在住の「民謡全国大会一位」になっている
すごい歌い手の人がいる、という情報をつかみ、
急きょその夜に夫と2人あつかましくご自宅へ押しかけて行って
お願いに上がったんです。
「渡部英夫さん」っていう地元の大工さんなんだけど、
東京両国国技館での民謡全国大会とかで
何度も何度も上位入賞している方なので、
何度もTV出演なさっているそうなの。
どこの馬のホネともしれない、
突然の我々の夜になっての訪問と無理なお願いに、
「承知しました。もちろん喜んで謳わせてもらいますよ。」
って即決で承知して下さって、
「それはそうとやっちゃん演奏はどうするべ?
三味線は? 尺八は?
太鼓と大太鼓もなんだったら呼ぼうか?」
と、いつも一緒にやっている演奏家の方たちに
その場ですぐに連絡をとって、
みなさんからOKを取って下さったんです。
もう、本当にうれしくて大感激でした。
「すごいよ! 生で日本一の民謡が聞けるなんて!
これでおじいちゃん、おばあちゃんたち、
どんなに喜んでくれるだろう!」
その南相馬を去る最後の日に、
夕方からの予定の民謡、カラオケ大会の
準備をすすめていたときに、
避難者の方たちのお昼の食事が終えたころ、、、。
石神第一小学校避難所の出入口の扉が
ガラガラガラっと開いて、
背広姿の男の人たちが
10-13人ほどだったでしょうか?
突然静かに入って来たんです。
「ここに背広姿の男が来るって
めずらしいなあ。 一体どこの何者? 」
って思ってよくよく見ると、、、。
その真ん中にひっそりと静かにたたずんでいらしたのが、
なんと京セラ名誉会長稲盛和夫さんだったんです。
つづく
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