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2012. 01. 19  
下に鹿児島薩摩川内( さつませんだい )はんや祭りの写真を
アップさせて頂きました! ぜひご覧くださいね ♡


みなさんこんにちわ !
いつもデコボコブログにお越しくださって
ほんとにありがとうございます !

サイドバーの写真は8年ぐらい前に友だちと2人で京都で
舞子さん芸子さんコスプレ」してくれる
スタジオで撮った写真なんだけど、
多分誰が見ても絶対本人とはわからないと思うんで、、、。

このときこの友だちが思いつめたような顔して、

「やっちゃん、あのね、、、わたしね、、、。
舞子ちゃんになりたいの、、、。」

って突然言い出したからわたしは感違いして
 
「ええっっ、、、?  、、、、?
あのさ、、、。  気持ちは良くわかるけどさ、、、。  
わたしらの年じゃ、祇園じゃどこも
雇ってくれないと思うよ、、、? 」

って言ったの良く覚えてる。

IMG_1445_convert_20120204035039.jpg
 こちらは舞子さんになった友人です。
 中学時代からの大親友。 男の子たちのあこがれの的だったの。 
 とってもきれいでやさしくて、あたたかいステキな女性。 
 かっちゃんは「 のりピー( 呼び名 )見てたらホっとする。」
 って言うの。 えらいすまんね、、、、(笑)。
 彼女は昔も今も同期の男の子たちにとって永遠のマドンナ。


けっこう全国からたくさん来てて有名で大人気らしいです。
友だちは舞子さんやって私は芸子さんになりました。
最近は人力車にまで乗せてくれるらしいの。
私も乗りたかったな。
このまんま2人でお座敷に出たかったな、、、。
( 実は彼女、この後さらにひそかに2回も1人で行ったらしい。)

ずいぶん後になってわかったんだけど、
私の姪っ子がお姑さんと二人で、
やっぱり同じ所でおんなじことやってた(笑)。

こないだテレビで「萌喫茶特集」やってて、
現役東大生がメイドさんしてて、ビックリした。

「あ、、、やっぱりすごいカワイイ、、、。
もう30年若かったら私もこれ、やりたい、、、。」

と思ってしまったもの、ほんと(笑)。

誰でも変身願望って持ってて、
最近は手軽に写真スタジオでやらせてもらえるんだけど、
ただ写真撮るだけじゃものたりない気持ちになってしまって、
そのまんまその道に走ってしまう人の気持ち、
わからなくないなあ、、、と思います。

でも京都の本職のお茶屋さんは大迷惑してるみたいです。
こういうのがはやってて、
ニセモノが京都の街をうろうろしてて、
外国人観光客には本職なのか、
そうじゃないのか見分けがつかなくて、
伝統ある「お茶屋文化」に支障きたしてるらしい、、、。
ほんとにスミマセン、、、。

本職の彼女たちにはとてもきびしい昔からのしきたりがあって、
例えばマクドナルドとかには入っちゃダメ、とか決まりごとが
たくさんあるなかで日々きびしい芸事の鍛錬をされているそうです。

この「舞子さん芸子さんコスプレ」は千年の都、
京都でやるからいいのよネ。
これ、大阪でやったら石ぶつけられると思うの、、、。
加賀なんかも街並に溶け込んで似合いそう。

京都生まれの私は女性の着物姿が大好きで、
着物を着てる男性も女性も、もう見てるだけで
「いいなあ、、、ステキ、、、。」って思うんだけど、
母が生きてるころはちょくちょく着ることもあったんだけど、
もう今は全然着なくなってしまった、、、。
呉服屋さんも昨今、きびしいんじゃないかしら、、、?

主人の実家鹿児島の方でも
騎馬武者姿やってくれる所があって、彼は心中ひそかに
 「いつかは俺も必ず、、。」
って思ってるみたいなの(笑)。

下の写真は実家から35-40キロほど行った
薩摩川内市( さつませんだい )の川内はんや祭りの写真で、
この町には全国的に有名な「鎧製作会社」が古くからあります。
実家のすぐ近く、10分ぐらいの所にも1つ鎧の製作会社があるの。

薩摩川内( せんだい )はんや祭り写真集です。
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霧島の乗馬クラブの方たち。
馬を疾走させて、生で見ると超かっこいいの。

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写真上をクリックいただくと画像が大きくなります
IMG_0328.jpg
これは秀吉さん。 物語式になってて、主役は島津四兄弟。
天下分け目の関ヶ原の戦いで、家康本陣の目の前を突破して
大河ドラマなんかに良く出てくる、島津義弘さんがメイン。
これは秀吉の九州征伐のシーンなんだよ。
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先頭歩いてくるあの兜は、、、石田三成さんだよね。
関ヶ原の戦いシーンは小説もドラマも一杯あるけど、
私が一番好きなのは司馬遼太郎さんの「関ヶ原」。
ドラマでは大河ドラマの「葵徳川三代」かなあ、、、?
津川雅彦さん、もう家康のイメージそのもの。
女性の一番人気は大谷刑部吉継さんかもね、、、。
私も吉継さん大好き。みんなコロコロ裏切った中、義を貫いた。
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こっちが薩摩軍。 薩摩って色が地味なんだよね(笑)。
島津四兄弟が床几に座ってるの。
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床几に座ってるあの兜は福島正則さん。

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いいなあ、、、。チャンパラごっこ、楽しそう。
男の子はみんなチャンパラごっこ大好きよね。 
私も混ざりたい、、、。

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IMG_0355_convert_20120128160839.jpg>
もう入り乱れてしっちゃかめっちゃか状態(笑)。

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8.jpg
もうかわいくって、ため息でちゃうちびっ子武者くんたち。

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ちびっ子武者くんに全滅させられた所なの。

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女武者の出陣に法螺貝吹いてる兄ちゃん。 
もとい、若武者。

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みなさん休憩中。 
この太鼓全部キャスター付きで、叩きながら行進するの。

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武者行列が終わって踊りの部の始まりを告げる
怖い顔ですごいドスの効いたガラガラ声したおじさん(笑)。

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主人はこの鎧がものすごく欲しいみたいなんだけど、
( おまけに刀も、、、。)
いや、欲しいというより自分が着てみたいなんだけど、
「これを、この家の中の一体どこに置くつもり?
 絶対にダメだからね。」って固く言い渡してます。
ちょっとかわいそうかな、、、?



ちょっとここで歴史のお勉強。
島津四兄弟って? 」


薩摩藩16代藩主 長男島津義久公
それを支えたと言われる義弘、歳久、家久の三兄弟。

「島津に暗君なし。」

と言われますが、
四兄弟どれをとっても名将だったと言われています。

武勇の義弘、知謀の歳久、兵術の家久と呼ばれた。
とくに義弘は軍神摩利支天の再来と呼ばれた。

長男である藩主義久は、
父貴久の後を引き継ぎ九州平定の大仕上げをなしとげ、
この一筋縄ではゆかぬ弟たちを手足のように使いこなし、
( この戦国時代、兄弟にも寝首をかかれる。)
全軍の統括を行い一糸の乱れもみせず、
家康をして、

「自分で手柄を立てるより、
人に手柄を立てさせる方がはるかにむずかしい。
島津義久こそまことの英雄である。」

と言わしめた。

華々しい軍功は弟たちにゆずりながら、
島津家存亡の危機に瀕するや
義久が乗り出してきて収拾させるのである。

秀吉九州征伐のとき、義久は和睦を決意。
頭を丸め、秀吉本陣へ赴き前庭で土下座をして
恭順の意志を示し、表向き引退して弟義弘に17代を継がせた。

四兄弟の中で島津義弘公が最もメジャー。
生涯合戦に臨むこと52度。
特に関ヶ原の合戦で家康本陣の目の前を突破した、
果敢な脱出劇は名高い。

その勇猛さは「鬼島津」と恐れられた。
権謀術の類いは得意ではないが、
状況判断力に優れていたといわれる。人柄は実直。
祖父島津日新斎の再来といわれ「維新さま」と現在も慕われている。
入道後の名は島津維新斎入道。

秀吉の命による朝鮮出兵の際、明の董一元は20万の軍勢を率い
義弘率いる島津軍を泗川新城(しせんしんじょう)に包囲する。
島津軍の兵力は1万であったが、
義弘は島津軍独特の戦法野伏釣により、
この泗川の戦いで明軍20万を撃破する。
島津軍は明軍に
「鬼石曼津 グイシーマンズ」と呼ばれ恐れられる。

祖父、島津日新斎から
「雄武英略をもって他に傑出する」
と評されるほどの猛将だった。

秀吉は島津を恐れ、
その弱体化を図るために義弘を優遇して
逆に兄の義久を冷遇することで兄弟の対立を煽ろうとしたが、
島津四兄弟の結束は固く、
微塵とも互いを疑うことは無かった。

この流れで義弘を当主にという見方が出来たとされるが
義弘は
「予、辱くも義久公の舎弟なり『惟新公御自記』。」
と兄、義久を敬うことは終生変わらなかった。

また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には
敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
享年は85才、というから驚くほどの生命力である。

関ヶ原の敵中突破
義弘がたまたま大阪にいた時、石田三成挙兵が勃発。
このとき、遠く薩摩で畑仕事をしていた薩摩兵児たちは、
変事を聞くやいなや鍬を投げ捨て、鎧兜を背に背負い、
粛々と銘々が一騎駆けに徒( かち )で走って中国道を駆け上ったが、
いかんせん、あまりにも関ヶ原は遠すぎた、、、。

島津軍は東軍家康へつくべしだったが、
徳川方、伏見城で城将鳥居元忠の入城拒否に会い、
また石田三成にすかさず妻子を人質にとられ、
心ならずも西軍として、わずか手勢1500あまりで参戦するも、
義弘は三成が大っきらいだったので、
再三の三成の出陣要請を叩き返し、
( この直前、戦況きびしく墨俣で敵と向き合って
  孤立した薩摩軍を三成が見捨てたため、
  義弘は甥の豊久に命じ自軍を救出に向かわせている。)
最後まで軍を動かさず、西軍総崩れの敗北後、

「よし、時期到来じゃ。 皆の者、今こそ退却しもんそ。」
と四方八方が敵軍の中、鉾矢形の陣形を保ちながら
真正面家康陣へ突き進み、そのあまりの大胆不敵な敵中突破に
怒り狂った伊井軍、福島軍、本田軍など東軍の諸将が
怒涛のごとく薩摩軍に襲いかかった。
このときの凄絶な薩摩軍の戦いぶりは
長く語り草になっている。 

しかしこの後の兄、義久の外交手腕が見事であった。
薩摩に逃げ戻った義弘を義久は素早く桜島にかくし、
それから領内に総動員令を下し、国境を固め、
徹底抗戦の態度を内外に示した。

その一方でひそかに家康に繰り返し使者を送り、
陳謝の意を示して時間をかせぎ、ねばりにねばったあげく、
徳川への服従のかわりにまたしても
所領安堵に成功してしまう。


島津を誅伐出来なかった家康はこのことが深く心残りで、
死に臨んで
「遺体は駿河の久能山に埋めよ。
 ただし頭は西国へむけよ。」
と薩摩に向けて葬るように遺言を残したと言われる。

嫡男の子孫が近世大名として幕末まで存続しえたのは、
伊達、上杉、毛利、島津のわずか四家にすぎないのであるが、
( 全て国替えをさせられており、
1カ所に七百年居つづけた大名は島津氏のみである。)
家康の憂いは250年後、
西郷、大久保らの倒幕という形で現実のものとなる。

義弘はすでに子、忠恒に十八代当主をゆずっていたが、
( 名を改め家久。 早世した弟と同名。
 この弟家久の子、甥っ子の島津豊久の獅子奮迅により、
 義弘は関ヶ原脱出に成功。豊久は敵から全身に矢を打たれ、
 なます切りに切り刻まれながら
 見事な立ち往生で藩主叔父を逃がせた。)

家康の西軍にくみした諸大名への裁断が熾烈を極めるなか、
「たとえ一身投げ打っても、島津家を滅ぼすではなかど。
 父の死に目に会えずとも、将軍家へのご奉公をやりもんそ。」
と遺言したとおり、この後幕末維新にいたるまで
薩摩の盟主の時代が続いてゆくことになる。

晩年は体の衰えが顕著になり、
1人で立ち歩きも食事を摂ることも不可能になっていた。

それを見かねた家臣が義弘に食事を摂らせるたび、
「殿っ、戦でございますっ。」
と大声で告げ、義弘の病床の足下で近従が、城外で兵たちが
鉦太鼓を打ち鳴らして大いに鬨の声をあげる。

それを聴いた義弘の目は大きく見開き、
がば、と跳ね起きて1人で考えられないほどの量の
食事を平らげたという、、、。
(参照)「 島津義弘公肖像画と銅像 」

ちなみにかっちゃんの実家「吉田郷」は
三男、歳久公が松尾城主として治めていました。

最後は悲劇的で、秀吉九州征伐のさい兄弟のうち1人だけ
最後まで秀吉に屈しなかったので、秀吉が激怒。
兄の藩主義久が泣いて弟に切腹を命じました。
このときの義久公、歳久公の悲哀に満ちた文書が残ってて、
兄弟の悲しみがひしひしと伝わってきます、、、。

この方も、善政をひいたんでしょうね。
歳久公をしのんで、吉田郷の村人たちが建てた
苔むした小さな供養塔が、歩いてすぐの所に残っています。
今でも歳久公を「金吾様 きんごさあ 」と呼び慕っていて、
毎年「金吾様踊り きんごさあおどり 」っていうのがあるの。

(参照)「 島津歳久公の史跡を訪ねて 金吾さあ踊りの風景。」
     「 金吾さあ踊り2009年 」

四兄弟の祖父「島津日新斎」は島津家中興の祖と言われ、
若者の教育にとくに力を入れた人らしい。
「日新公のいろはガルタ」っていうのが現在も
鹿児島県小、中、高校で教材に使われてるっていうからすごい、、、。

たしかにこのいろはガルタ、読んでみると素晴らしい内容なんで、
興味ある方はぜひ一度読んでみて。

島津日新斎が急速に増大化していた家臣団の指導と教育のため、
理解しやすいように覚えやすいようにと,いろは順に歌にしていたんですね。

5年余の歳月をかけ完成させたという
薩摩藩「郷中教育」の基本精神となったといわれる、
全部で47首の歌です。 
鹿児島の子どもたち、今でもこれでカルタをしてる子、
けっこう多いそうなの。
薩摩武士、士道教育の教典となった、
この「日新公いろは歌」は現代に通じる多くの示唆を含んでいます。


イ いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし
  昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけでは
  役に立たない。 実践、実行することがもっとも大事である。

ロ 楼の上はにゅうの小屋も住む人の心にこそは高きいやしき
 立派な御殿に住んでいようと、粗末な小屋に住んでいようとも、
 それで人間の価値は判断できない。 
 心のあり方によってこそ真価が決まる。

ハ はかなくも明日の命を頼むかな今日も今日とて学びをばせで

 明日のことは誰もわからない。
 勉学修行を明日に引き延ばし、
 もし明日自分が死んだらどうするのか。
 今この時を大切にすべきだ。

ニ 似たるこそ友としよけれ交らわば我にまします大人しきひと

 人は自分と似たような人と仲良くなるが、
 それだけでは進歩は望めない。
 自分より優れた見識を持つ者を友とすることで
 自己研鑽をすることが必要だ。

ホ 仏神ほかにましまさず人よりも心に恥じよ天地よく知る

 神仏はどこにでもいるものではない。自分の中にいるのだ。
 恥ずべき行動をしたら、自分の良心に恥じよ。
 世間は欺けても自分の心は欺けない。

ヘ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だにつもらばちりもやまとことのは
 自分は下手だと卑下して努力を怠ってはならない。
 稽古を積めば少しづつ進歩して、遂には上手になれる。
 ちりも積もれば山となる。 継続は力なり。

ト とがありて人を斬るとも軽くすな活かす刀もただ一つなり
 罪のないものを切ってはもちろんならないが、
 たとえ罪があっても刑を行うにあたっては
 決して軽々しく行ってはいけない。
 殺人も活人も心一つで決まる。

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火縄銃いいですね!
ダイヤくん、こんばんわー。
ダイヤくんとこ、デザイン変わったのネ。
今度のもかわいくってとてもステキだよ。
学校の方、インフルエンザは大丈夫?

わたし、これからもっともっと、
ダイヤくんぐらいの年頃の人たちに、わかりやすーい言葉、
なおかつしっかり中味がある記事を書きたいなあって
とっても考えるの。

なんかわかりにくいなあって思ったら、
遠慮なくビシバシ教えてねー。
よろしくネ。

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かっちゃんやっちゃん デコボココンビです。 
IMG_1646_convert_20120204090505.jpg       おこしやす ごてヤスやっちゃんどす。
年季入りの歴史戦国大好き歴女です。
これ、ただのコスプレです。         本職の芸姑さんじゃありませんもちろん(笑)。         当ブログはリンクフリーです。
転載等もご自由に。コメントも大歓迎です。
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プロフィール
2_convert_20150509053231.jpg Authorやっちゃん なぜか10人いれば10人           「 奥さんB型だよね? 」といわれるO型です。
頭に血が昇るとついガラガラヘビ状態に
なってしまいます。
更年期と戦う日々を送ってます。
介護事業所にてバイトしてマス。
大阪で建築業を営んでいましたが      かっちゃん実家鹿児島母要介護リハビリ
のため大阪から鹿児島に移り住みました。
やっちゃんO型       かっちゃんA型
あだ名 ごてヤス     自称 南海の黒豹

出身京都 現在鹿児島 出身鹿児島45年ぶりに
趣味 花づくり 読書   大阪より帰鹿

かっちゃん座右の銘 命惜しむな名こそ惜しめ
かっちゃんの尊敬する人 西郷隆盛
好きな人   西郷隆盛
好きなこと  西郷隆盛の本を読むこと。

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