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2015. 04. 16  
川路利良(かわじ としよし)
という人物をご存じだろうか?

幕末から明治初期にかけての
薩摩藩士、警察官僚、陸軍軍人にして、
初代大警視(警視総監)をつとめ、
欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した、
日本警察の父といわれる人なんだけど。

薩摩藩の家臣は上士、郷士などに分かれていて、
西郷隆盛、大久保利通と同様、
川路利良は身分の低い出身の人だった。

その生真面目な仕事ぶり、人柄を西郷さんに愛され、
大抜擢されたりしてた人なんだけど、
戊辰戦争で桐野利秋とともに西郷隆盛に認められ、
桐野は軍隊を、川路は警察をまかされたりしてた。

だけど鹿児島県内では恐らく長年、
ものすご~く評判は悪かったのかもしれない。
なぜなら、、、。

以下wikiより1部抜粋。


、、、維新後西郷の招きで東京府大属となり
司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。

帰国後、警察制度の改革を建議し、
ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に
日本の警察制度を確立した。

明治7年(1874年)、警視庁創設に伴い
満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任。
(この年齢は現在でも史上最年少)。

執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、
派出所を巡視して回り、
一日の睡眠は4時間に満たなかったという。

明治六年政変で西郷隆盛が下野すると、
薩摩出身者の多くが従ったが、川路は

「私情においてはまことに忍びないが、
国家行政の活動は一日として休むことは許されない。
大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」

と表明した。

内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、
不平士族が喰違の変、佐賀の乱などを起こすと、
密偵を用いて動向を探った。

薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、
「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、
不平士族の離間工作を図ったが、
中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられた。

苛烈な拷問が行われた結果、
川路が西郷を暗殺するよう指示したという自白書がとられ、
川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。

西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、
警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦する。

激戦となった3月の田原坂の戦いでは、
警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退ける。

5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、
西郷軍を退けて進軍するが、その後旅団長を免じられ東京へ戻る。

旅団長は大山巌(後の第2代大警視)が引き継いだ。




、、、という背景でもって、つまり大久保さん同様、
西郷さんの敵に回っただけでなく、
西郷暗殺疑惑まで持たれてたからなのよね。
これが果たして真実なんかどうかわからないけど。

でも今はそうでもないみたい。


NHK鹿児島県のニュースより


鹿児島県警察本部では川路大警視に学ぼうと、
新人の警察官たちが毎年、
生誕地までの往復およそ20キロの道のりを
隊列を組んで歩く訓練をしていて、
15日はこの春警察学校に入校した
新人警察官たちおよそ130人が参加しました。

新人たちは、鹿児島市役所の吉田支所の前をスタートし、
ゴミ拾いをしながら生誕地を目指しました。

そしておよそ2時間後に鹿児島市皆与志町の生誕地に到着し、
ほうきなどを使って川路大警視の生誕を記した石碑のまわりを
清掃していました。新人警察官の1人は、

「大変な道のりでしたが、
川路大警視の石碑を見たときには達成感がこみ上げてきました。
鹿児島の偉大な先輩である川路大警視のような警察官になれるよう、
これから頑張ります。」
と話していました。 04月15日18時57分



なんだって。
この吉田支所っていうのが、
やっちゃんとこから歩いてすぐのウチの村の中にあるの。

川路大警視に親近感持っちゃった~

スタジオ大和さんより写真お借りしました。
ありがとうございます。


4月15日毎年行われる警察学校の一大行事。
吉田支所を出発し、
皆与志に向かって20キロを2時間かけてひたすら歩く

IMG_959101.jpg
川路大警視の生誕を記した石碑のまわりを清掃
IMG_969701.jpg

IMG_968201.jpg
清掃のあとは全員で黙祷
IMG_974801.jpg



新人警察官の皆さん、お疲れさまでした。
立派な警察官になって下さいネ。
そして鹿児島治安維持のためにどうか頑張ってほしい。



「西郷南洲翁そのリーダー像①」


西郷隆盛の自刃によって士族の最後の反乱
西南戦争は終結し、
全国的な武士たちの反乱も全て終結を見た。

ここに武士の世の中完全に終わりを告げた。

この間のできごとをモチーフにして反乱者側の目線で、
西郷隆盛をモデルにした映画、
ラストサムライ」を見た人は多いと思う。

やっちゃん大好きな映画なんです、これ。
映画館に2回見に行ったもん。
DVDで見るのと映画館では迫力が全然違うし。
渡辺謙さんはやっぱり素晴らしい。
ちなみに「大村」のモデルはやっぱり山県有朋かなあ、、、?
う~ん、、、?



西郷隆盛という人物については、
歴史学者始め多くの人が、

不用意な欧米化を戒めた西郷 西洋かぶれした長州の俗人
 世相を斬る あいば達也
より


西郷ほど民衆の信望を集めた政治家はいない。

彼が西南戦争に敗れて自死した後も、
人々は夜空に輝く火星を西郷星と呼び、
彼が中国やインドやシベリアで生きているという噂を信じた。

伝説の英雄をいつまでも野に放っておくのは得策ではないと
政府は判断したのだろう。
1889(明治22)年の憲法発布にともなう
明治天皇の特旨で西郷の賊名が解かれ、
正三位が追贈された。

それを契機に薩摩閥を中心に、
銅像建設に向けた動きが始まり9年後に完成した。
当初案は軍服姿だったが逆徒の経歴ゆえに撤回され、
設置場所も皇居前 から上野公園に変更された。

上野公園は「逆徒」を無害化して
「官」の側に取り込む格好の装置としても
機能してきたのである。

それにしても、と私は思う。

維新最大の功労者・西郷は
自ら樹立した政府になぜ反旗を翻したのか
どんな日本を作りたかったのか

夕空に屹立する巨大な銅像が、近代史のの塊のように見えた
。   



、、、的な疑問を投げかけてる。

やっちゃんなりには、
西郷さんは大久保さんのような政治家では
なかった、と思う。
骨の髄までやっぱりサムライなんだと思う。

だけど幕府を倒し、日本の近代化を図る以外に
欧米の侵略を食い止める術がないことも熟知していて、
それを成し遂げた。

西郷さんはご主君、300諸侯に並びなき英傑、
といわれる島津斉彬から直々に篤い薫陶を受けており、
当時第一級の思想家や学者たちや諸藩の実力者達とも親交深く、
その政治感覚国際情勢分析力はトップクラスにあった、
と思って間違いないだろう。
逆に過激な攘夷志士たちとは、
ほとんど深い親交をした形跡は見られない。


しかしそれには士族の解体
という大改革が必要だった。

全国の士族たちがそれを許すはずもない。
特に薩摩藩の武士たちは軍事力があり、
西郷さんはそれを押えるために下野した。

一説には若い薩摩士族たちの暴発を抑えるためだけでなく、
島津久光を抑える目的もあった、という説もある。

上記にお借りした「世相を斬るあいば達也」さんにもあるように、

維新最大の功労者・西郷は
自ら樹立した政府になぜ反旗を翻したのか。
どんな日本を作りたかったのか
。」


、、、という疑問を投げかけているけれど、
特に維新後の西郷さんの行動にはが多い。
学者・専門家の間でも意見の違いが見られる。

その最大の理由の1つに島津久光の存在が見え隠れする。

かの木戸孝允も死ぬ間際までその複雑さを知らず、
西郷さんを誤解していた節がある。

木戸は西郷さんをとことん嫌っていたけれど、
西郷さんは西郷さんで、

木戸さんは何故こうもおいを憎むのか。」

とつらそうであった、というけれど、
木戸が当時すでに死の淵にいて、死ぬ間際になって初めて
西郷さんと久光との複雑な背景を人に聞かされ、
西郷さんの抱える苦悩の深さ複雑さを知り、

そういうことだったのか、、、。」

と今まで西郷さんを誤解していた事を後悔した、という。

その辺りを細かく書くには、
他藩にはない、薩摩藩独特の内情にまで及ぶので、
長くなりすぎるのであえてここには書かない。


下野した後、粗末でつつましい暮らしを送りつつ、
愛犬たちと故郷の山野を駆け巡る日々は、
彼にとって一番幸せな日々だったに違いない。
上野の銅像はこの頃の姿。

明治政府の急激な改革は当然士族たちに深刻な不満を抱かせた。

1872年に国民皆兵をうたう徴兵告諭
1876年には廃刀令が出され士族のプライドは傷つけられ、
士族たちの特権だった秩禄全敗処分で、
たちまち士族たちの生活は困窮を極める。

こうしたできごとと平行する形で
士族の反乱があいついで起こっていく。

まず1874年に佐賀の乱が起こる。
民選議院設立建白書に署名した江藤新平が佐賀に戻ると
不平士族にかつがれて反乱をおこした。
(この時、江藤に同時決起を懇願されて、
西郷さんはそれを断固固辞している。)
大久保利通はこれを鎮圧すると江藤を処刑してさらし首にした。

秩禄処分がおこなわれた1876年には熊本で神風連の乱
福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と相次いで反乱が勃発する。

薩摩においても若い士族たちの暴発を、
押さえ続けることのもはや不可能を悟った西郷は、
ついに西南戦争を起こす。

おいのこん身体、おはんたちに差し上げもんそ。」

若い士族たちにそのように告げ、
自らが先頭に立ち、自らが自刃することによって、
意図的に全てを終息させようとした。

つまり全国の武士の象徴たる自身を
自ら抹殺した。

それによって、今後大久保ら政治家たちの手によって引き継がれ、
列強に対抗できうる近代日本への真の夜明けが成される事を
彼は渇望していた。

事実これ以降、
士族の反乱は一切起こっていない。
大西郷の死によって全国の士族たちは

終わった。」

と腹の底から認識したに違いない。


、、、というやっちゃん史観なの。
西郷隆盛という人は自ら始めた維新への道を、
さらに自ら完結させた。

もちろんこの西南戦争によって、
多大な犠牲者が薩摩軍から出たことには違いなく、
時代の変換とはいえ、
大きな犠牲の上に維新はようやく成立した、といえる。



西南戦争経路。
南九州をぐるりと回って薩摩城山へ戻り、自刃している

map_convert_20150416200530.jpg



だって西南戦争の経路を見ると、
西郷さんが本気で新政府を倒そうと意図したとは
とても思えない。

ほんとの本気で明治政府に反乱起こす気だったならば、
軍艦手に入れて最新の武器弾薬積み込んで、
下関か大阪湾か横浜あたりに上陸すると思う。

もしくは、まず九州制圧を目論んだならば、
隊を分け挟み撃ちにするとか、奇襲をかけるとか、
まず西郷の名において密かに四方にを飛ばし、
北九州、長州、関東方面からも士族たちに同時決起を促すとか、
やれる事は一杯あるだろうに、そういう事も一切やってない。

あえて言い方を換えれば、
あまりにもヘタクソすぎるぐらいの戦争の仕方でもって、
ジリジリと追い詰められてしまっているのだ。
しかも最終局面に近い頃まで、
指揮は桐野らにまかせて西郷さんはほとんど
口出ししなかった、という。


明治10年(1877年)官位を剥奪され、
死後、賊軍の将として遇された。

その後、西郷さんの人柄を愛した明治天皇の強い意向や、
勝海舟や黒田清隆らの運動があって明治22年(1889年)、
大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、
正三位を追贈された。

明治天皇は西郷さんの死を聞いた際に、

西郷を殺せとは言わなかった。」

と洩らしたとされるほど西郷さんを深く愛しておられた。

特に大赦が実現するまではほとんど毎夜のように、
繰り返し西郷さんの思い出話を周囲にされていた、
というから生半跏な想いではない。
西郷さんはもちろん明治天皇への衷心は誰よりも篤かったはずだ。

その彼が、明治天皇に対し、
ほんとの本気で逆賊として反旗を翻し、
明治政府転覆させよう、というのは理解しがたい。



逆賊として死んだ西郷さんを、
新政権がその官位を剥奪するやいなや、
新聞各紙が西郷非難を始め、
各紙の論者たちが彼を叩きまくっている事に対して、
福沢諭吉が激しく抗議し、
西南戦争直後に明治政府を強く批判する
かなり長文の論文を書いていている。


福沢諭吉「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」より

論者たちが西郷をとするのはなぜだろうか。
西郷は天皇を抹殺してその地位を奪おうとした者なのかどうか。
論者たちがいかに愚かであってもそうではない事は明らかだ。
(略)
西郷において主君を敬う心は今も昔も何ら変わらず、
今の政府の高官らと比べてもなんら劣る事は断じてない。
すなわち西郷は天皇に逆らうなどではなく、
今日においても類をみない尊王家であると
論者たちも評価しているのだ。
(略)
すなわち西郷の死は哀れむべきであり、
彼をして死に追いやったのはむしろ政府である
。」

と書いていて、さらに、

新聞記者は政府のに似たり。」

とまで言い切っていて、

子に伝え、孫に伝えていくうちに、
百年後には事実が隠遁して、
真実がわからなくなってしまうのは必須である。
数日をかけてこの一文を書き、
これを公論と名づけたのは誰のためでもなく、
一国としての公平さを擁護したいと考えたからだ
。」

最期に、

西郷は天下の人物なり。
日本狭しといえども、国法厳なりといえども、
豈(あに)一人を容るるに余地なからんや
。」

すなわち

西郷は偉大な人物である。
国の法がいかに激しいものであっても
一人の人物を受け入れる余地はなかったのか
。」

と述べて、西郷の人物を惜しみ、
いつかこの人物を起用する時もあったはずであると結んでいる。

とにかく福沢諭吉は激しく怒っているのだ。
この論文は戦争終結直後に書いているものの、
言論弾圧を恐れた福沢はだいぶ後に発表している。


この時政府は世論を西郷批判に誘導するべく、
大新聞を動かしたんだろう。
だけど恐らくそれはむしろ逆効果だった。
死してなお、
世の人々の西郷隆盛への声望は高まっていったのだ。

西郷星

という世論まで出てきてしまった、、、。



新聞マスコミなどどいうものは、
昔も今もほんと大して変わりはないんやなあ、、、
と改めてあきれる思いになる。



西郷さんの戒名は南州寺殿威徳隆盛大居士

そして西郷さんが終生の哲学、理想とした、
 
敬天愛人(けいてんあいじん)」

最も簡単にいえば、
敬天とはをおそれ敬うことであり、
愛人とはを慈しみ愛すること、
だというけれど、、、

海音寺潮五郎氏の言葉を借りれば、
愛人 とは民を愛する
という意味だそうだ。


西郷隆盛という人は
真実革命家であったけれど、
その本当の本質は、
貧しい民を慈しみ心を添わせ、
清心尽力する情愛の人であった。

と、、、。


特に黒糖地獄
という言葉が存在するほど、実に長年に渡り、
薩摩藩に苛烈に搾取されつづけていた奄美大島
そして沖永良部、徳之島。

島の人々や、薩摩の貧しい農民への西郷さんの想い。

薩摩藩役人や官僚たちへの激しい弾劾
農民たちの窮状の実態に沿って何度も出された農政建白書、
重税に喘ぐ農民たちの窮状を黙視できず、
自らの手当てや扶持米を常に分け与えたり、
税を納められずに薩摩藩役人に折檻される農民を救い出したり、
牛を売らねば税を納められない農民が、
夜陰牛との別れを惜しんでいた時、
西郷さんはその姿を目撃して窮状を憐れみ、
納税額を減額するよう役所に掛け合って尽力したり、、、。

最後に流罪になった沖永良部では、
数十人の島民たちが西郷さんに弟子入りまでしている。

島の若者たちに聖賢の道について教えたり、
飢餓の時のため豊作時に穀物を高倉に保存しておき、
凶作時に皆に支給する社倉法などを伝授し、
島民の尊敬を得たという。

、、、というような数々のエピソードが伝えられていて、
その証拠はいくらでも挙げられる。

しかもそのほとんどは、西郷さんの表舞台での活躍時、のではなく、
むしろ長く逆境にあった時代の西郷さんと地域の人々との
実に数多くのエピソードが口伝えや書き物として、
または昭和まで長生きされた方の実録のテープとして、
子孫の人々や地域の人々に伝えられていて、今日知ることができる。


貧しい民を慈しみ心を添わせ、
清心尽力する情愛の人
、、、。


だからこそ今もなお、
島の人々、本土の人々、実に多くのごくごく市井の人々が
西郷さんを篤く敬愛し、
西郷さんの人格的光芒は彼らの心の中に放ち続けているのだ。


、、、西郷さんは偉大な人物だったんだな、
とほんとにそう思う。
やっちゃんは西郷さんの足跡と人とをここまで考え続けてきて、
ストン、とほんとにに落ちた。

今、多くの政治家たちの中に、
わたし達貧しい国民を愛し、清心尽力してくれる人が
果たして存在するのだろうか、、、?

旧庄内藩の人々が、
西郷さんの遺訓を世に多く広めるために発刊した書物、
南洲翁遺訓の中に次の一節が書かれている。

利権まみれの政治家たちに、
彼の言葉を、
耳の穴かっぽじって聞かせてやりたい。


命もいらず名もいらず、
官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、
艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり








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Comment
初コメ失礼します♪
最近…踏んだり蹴ったりの日々を過ごしてる私です…(汗)

ボキャブラリーなくて申し訳ないんですけど
taniguchi11さんのブログ良いですよね。
読ませてもらって肩の力が少し抜けた気がします(〃´∀`)

だからもっとお話させてもらえたらなって(o゚▽゚)o
そしたら心の奥で凝り固まったものが解れる気がして!

taniguchi11さんに私の悩みを少しでも聞いてもらえたらすごくありがたいです。
ちょっとした感想でも大丈夫ですから♪

このままコメントで相談というのもあれなので直接お話しさせて欲しいです。
嫌だったり迷惑ならこのコメントは消してしまってください。

突然すみませんでした。
連絡もらえるの待ってます\(○^ω^○)/
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かっちゃんやっちゃん デコボココンビです。 
IMG_1646_convert_20120204090505.jpg       おこしやす ごてヤスやっちゃんどす。
年季入りの歴史戦国大好き歴女です。
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プロフィール
2_convert_20150509053231.jpg Authorやっちゃん なぜか10人いれば10人           「 奥さんB型だよね? 」といわれるO型です。
頭に血が昇るとついガラガラヘビ状態に
なってしまいます。
更年期と戦う日々を送ってます。
介護事業所にてバイトしてマス。
大阪で建築業を営んでいましたが      かっちゃん実家鹿児島母要介護リハビリ
のため大阪から鹿児島に移り住みました。
やっちゃんO型       かっちゃんA型
あだ名 ごてヤス     自称 南海の黒豹

出身京都 現在鹿児島 出身鹿児島45年ぶりに
趣味 花づくり 読書   大阪より帰鹿

かっちゃん座右の銘 命惜しむな名こそ惜しめ
かっちゃんの尊敬する人 西郷隆盛
好きな人   西郷隆盛
好きなこと  西郷隆盛の本を読むこと。

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